夏日狂想

 炎天下、赤錆色の砂利の上で、鉄道のレールが血の歌を歌っている。かげろうが立ちのぼる。沿線の森は鬱蒼と茂り、蔓草をびっしりと絡みつかせつつ、青空へ隆々と盛り上がり、緑の大伽藍のようだ。神が血の供儀を求めている。この季節、死肉にたちまち群がり喰い尽くす、蟻やウジ虫どものような神だが。私はレールの上を歩きながら考える。何も私を供物として捧げる必要もないのだ。かつて私を憤激させた者、私に恥辱を与えた者、思い出せる限りの過去から今に至るまで、私を傷つけた者ども――それが直接であるか間接であるかを問わず――ひとり残らず引っ捕らえ、陽光に焼けたレールに並べ、轢殺せよ! 鉄の車輪が彼らを粉砕する。ウジ虫の神もさぞ喜びたもうであろう。さて、次の電車まであと三十分である。それまでに連中を捕らえ尽くしてここに並べ終わらねばならない。なかなかの大仕事である。しかし二両編成、時速四十キロの電車にこの大役がつとまるものだろうか?


 古いコンクリートの橋から川面を見下ろす。燦爛たる日の光を浴びながら、水の色は暗い。少しも涼を感じない。温気が立ちのぼる。子供の頃から不思議なのだが、この川の水は時折流れるのをやめ、同じ所で単にゆらゆらと揺れ動く。あるいは一方の岸から一方の岸へ向かってさざなみが渡ってゆく。またあるときには川下から川上へ逆流しているようにしか見えない。錯覚ではないのであれば、河口に近く、そもそもが緩慢にしか流れない水が、あるときは潮の満ち干の干渉を受け、あるときは風の影響を受け、または中州や橋脚にぶつかりなどして、不思議な動きを示しているのではなかろうか。海の波などは、じつは極めて多様な力により生じた、無数の波が重なり合ったものであると聞く。この川も案外、それに近いものがあるのかもしれぬ。うんざりする温気を放ち、少しも流れず、ゆらゆらと揺れるばかりの黒く深い水を眺めながら、いささか意識が遠のいてくるのをおぼえた。帽子をかぶり忘れた私の頭は苛烈な陽光の直撃を受けている。私の意識もまた多様な影響のもとに生じた波の重なりのようなものだ。無数の観念、無数の連想、無数の言葉の作用の重なり合う、複雑怪奇の波である。織り成されたものは解きほぐすことができる。私は私の意識が解体されることを想像する。幼い日から習い覚えたすべての文字が、無数の線にほぐれてゆく。すべての言葉が、つながりを失ったばらばらの単語に、音節に、音素に、単なる音に。肉体もまた、それを構成するあらゆる組織がほぐれ、ばらばらに分解され、微細になり、目に見えるよりはるかに小さく、やがて元素に還元され、永遠の、無窮動の、宇宙を挙げての元素の戯れに参入するのである。もちろんその時には私はもはや、思考することなどありはしない。ただ、ただ、永遠の舞踏を踊るばかりである。さまざまな形を成しては崩れ、成してはまた崩れ、目的なく、限りなく無邪気なその運動を続けるのみである。この素晴らしく快活な思いつきに私はたちまち気分がよくなった。頭も涼しく冴々として、嬉しさのあまりに橋の欄干に飛び乗り、晴れやかな崩壊の時を持つまでもなく、その場で踊り出してしまいそうだ。


 夕暮れ、路傍に蝉の死骸が転がっている。なかば砂に埋もれ、腹の下半分はなくなっている。残った上半分の腹はまったくの空洞である。風が吹いて、死骸はかすかに揺れている。静かな光景である。

 十歳になるかならぬの頃だったと思う。曾祖母の何回忌かで、かつてその曾祖母が住んでいた田舎の大きな古い家に、私の両親と一緒に幾夜か泊まったのである。家のまわりには竹林と水田が広がり、さらにそのまわりを低い山に囲まれている、小さな集落であった。真夏で、窓という窓は網戸を残して開け放ち、昔ながらの火を使う蚊取線香の匂いがたちこめていた。いや、そうではなく、私のいた数日の間は仏壇にたえることなく供えられていた、線香の匂いであったかもしれない。
 夜、網戸の外は真っ暗であった。蛙の声さえしなければ、まるで外には何も存在しないかのようだった。ところがあるとき、その頃の私の掌ほどもある大きな蛾が一匹、翅をいっぱいに開いたかたちで、網戸の外側に、張り付いたようにとまっていた。室内の光に照らされたその翅は、模様はなく、濁りのない淡い青磁色をしていた。美しかった。が、生きているものの美しさではないような気がして、しかし現に生きているということに、気味の悪さを感じて私は後じさった。
 日の光の下で見る蝶々の色には、生命の感じがあった。日の光によって作り出された虹の彩りが、生命をおびて、あるものは花となり、あるものは蝶々になったのだろう。だが、美しい蛾は、幽霊のようだった。その色は、死の色だった。かたちもまた、青空を舞う蝶々の軽やかさと異なり、どこか重苦しい。といって翅はやはりごく薄く軽くできているのに違いないが、かたちそれ自体が、どこか陰気で、憂鬱な感じなのだ。
 後じさった私は、しかし、その場から逃げ出すでもなく、そのまま見入っていた。ごく珍しい生き物に出会ったという、好奇心が私を引き止めていた。……オオミズアオといって、そう珍しい蛾ではなく、田舎にしかいないわけでもなく、都市部の街灯の下を飛んでいることもあるのだ。が、私には初めて見るものであったし、また、必ずしもその蛾それ自体に見入っていたわけでもなかったのだろう。私は、不吉な美しさ、というものとの出会いに驚いていたのである。
 そういえば、こんなこともあった。やはり子供の頃のことである。どこへ行こうとしていたのか、あるいは帰ってくる途中であったのか、私は夜行列車に乗っていた。やはり夏で、当時はまだ冷房のない車輛が少なからずあり、私が乗っていたのもそうだったので、窓を開けて、草の匂いのする風に吹かれながら外を見ていた。さきほどの曾祖母の法事の行き帰りだったかもしれないが、おそらくもう少し後のことだったと思う。列車は各駅停車で、田舎の小さな駅にほんのしばらく停まった。ホームのへり、車窓からすぐのところに、植木鉢が並べられ、旅行者の目を楽しますさまざまの花が植えられていた。それらの花の一輪に、不思議な虫が一匹とまって、蜜を吸っているらしかった。翅を激しく震わせている様子は、蜂のようであったが、華やかな薔薇色の体を見ると、蜂とは思えず、蝶々のようでもあったが、それも違う。私はたまたま子供向けの科学雑誌でこの虫をすでに知っていたのである。これも蛾の一種で、ベニスズメというのだ。しかし、蜂のような蝶々のような、そんな蛾が本当にいるのかと、どこか訝しみながら雑誌を読んでいたので、実際に目の前に現れたときには、不思議な気がした。もっと見ていたかったのだが、すぐに蜜を吸い飽きてしまったようで、列車の短い停車時間が過ぎるよりも前に、花を離れたと思うや、たちまちに飛び去って暗がりの中に見えなくなってしまった。
 そんなふうに、子供の頃から蛾に興味をおぼえることが多かったのは、ひとつには、当時から私が、今にいたるまでずっと、夜ふかしが好きであるということと関係があるのかもしれない。親からいくら叱られても、いくら授業中に居眠りをして先生に叱られようとも、私は自室のベッドの中で、あるいはベッドからこっそりと起き出し、真夜中の静けさと独特な昂揚感とを楽しむのをやめなかった。幼い頃にはただ楽しいというばかりだったが、少し大きくなると、今目覚めているのは自分ひとりであるという切なさが、あたかも果汁のように豊かに含んでいるところの甘やかさを、好んで味わうようになった。そんな真夜中に、私の学習机のスタンドのまわりに、子供の指の爪ほどしかないごく小さな蛾が、どこかから飛んでくることがあった。蛾は私を怖れる様子もなく、しばしば机の上に舞い降り、翅をやすめるのだった。私は顔を近寄せてじっくりと観察したが、一向に逃げようとはせず、ただ、少し困ったように体の向きを変えるくらいだった。地味な薄茶色の蛾であった。もしかしたら、野菜なり穀物なりを食害する種類であったかもしれない(後に害虫についての新聞記事で、似たようなものの写真を見たのである。とはいえ、小さくて薄茶色をしているという以上の特徴もない蛾であったし、そんな特徴を持つ種類は他にいくらもいそうな気がする)が、よく見ると、光の当たり具合によって、鱗粉が金色を帯びるのだ。鋭く輝くというわけではない、穏やかな、落ちついた金色で、ちょうどその頃、買ってもらって愛用していた、金銀を含む二十四色セットの色鉛筆の、金の発色に似ていた。私はさらに片方の頬を机に押しつけ、蛾の姿を真横から観察した。すると、それはそれは小さな、黒い粒のような目がついているのを見つけた。愛らしいと思った。そして、誰もみな寝静まった深夜に、ともに目を覚ましている仲間であるという気がしてきた。孤独の甘やかさを分かちあう特別な仲間である。やがてどこかへ飛び去っていくまでの間、私はそのようにして、自分も小さな生きものになりきって過ごしていたのである。
 だが、昼間に蛾を見かける機会がまったくないわけでもない。昼行性の蛾というのが存在するというばかりでなく、夜行性であっても、なにも朝日がさしそめるとともに消え失せてしまうわけではない。単に、身をひそめているだけである。これも子供の頃の私であるが、昼下がり、学校の裏庭の、校舎が光をさえぎって薄暗いあたりでひとりで遊んでいた。遊んでいたとはいっても、ほかの人々には、ただぼんやり立っているように見えたかもしれない。私には、雑草の花を眺めたり、電線にとまっている鳥の声を聞いたりするのが、愉快な遊びであった。空はまばゆく青かった。やはり真夏であったように思う。日ざしの下で元気に駆けまわる子供たちも、きっと大勢いたのに違いない。私は、暑いのも、まぶしいのも、苦手であった。裏庭の一角に、物置だったろうか、古い小屋があり、その陰は一日じゅう日がささず、天気のよいときでもじめじめして、苔がたくさん生えていた。そんなところに好きこのんで近付くのは私くらいのものだったろうが、そこは夏でも涼しかった。また、誰も近付かないだけに、いつでも静かであった。私には居心地の良い場所であった。ところがあるとき、まったく思いがけないことだったのだが、小屋の黒ずんだコンクリートの外壁に、それは大きな、気味の悪い蛾が一匹とまっていたのである。種類は分からない。大きく開いた両の翅の、端から端までで、十五センチかそれ以上あったような気がするが、子供の目には実際より大きく映っていたかもしれない。そうだとしても、少なくともそのときまでに私が見た蛾のなかではずば抜けて大きかった。しかし私を驚かせたのは、大きさより、模様だった。焦茶色をしたその翅は、不気味な顔に見えた。得体の知れない何者かの、理由の分からない渋面であった。何かをひどく不快がっている顔であり、それがこちらをもたまらなく不快にさせた。我々の理解できる快不快でない、我々とは異なる世界から唐突に突き出された顔であり、ただ、それが我々のことをも不快に思っているということだけは分かる。歩み寄りの余地もない、底の見えない悪意を感じて、私の足はすくんだ。全身に震えがきて、一目散に逃げた。世にも恐ろしい顔に見えたその模様が、具体的にどのような模様であったのか、いまやまったく思い出すことができないほどに、そのときの私は動転していた。それからしばらくの間は、私のお気に入りのその場所に近付くのに、こわごわと、蛾の気配がないかどうかうかがわねばならなかった。だが、蛾にしてみれば、真夏の日ざしと暑さを避けて、居心地の良い日陰で休んでいただけのことだ。私がそうしていたように、蛾もそうしていたのである。子供を驚かそうなどとは思いもよらなかったのに違いない。


 つい先日のことである。山あいの温泉宿に停まって、真夜中、窓の外を見ていた。見ていたといっても、何も見えはしなかったのである。月は雲の陰にすっかり隠れていたし、民家の明かりもなく、街灯さえ見当たらなかった。つまり、宿の垣根よりも向こうは誰も住んでいないのだろう。そう思うと怖いような、しかし心惹かれる怖さであって、それで私は何も見えないところに目を凝らしていたのである。私の夜ふかし好きは子供の頃から変わらない。みな寝静まり、話し相手が誰もなくても、充分に楽しい。とはいえその晩は、旅疲れ、また湯疲れもあり、窓辺の籐椅子に腰かけたまま、やがてうつらうつらとした。室内の明かりは、外を見る妨げにならぬよう、足もとの常夜灯だけにしていた。私はほとんど暗闇の中にいたのである。ところが、閉ざした瞼の内からでもほのかに分かるほどの光がさしてきたので、私はぼんやりとした意識のままで目を開けた。窓の外で、雲が切れて満月が現れ、天と地に青い光を投げていた。地上に広がっていたのは、花園であった。見渡すかぎりに花が咲いている。花は、日の光のもとに生まれ、虹の彩りをまとった、蝶々のともがらではなかったのか。だが、真夜中に咲いているこの花々は、昼に見慣れたものとは違う、異様な色とかたちを持っていた。すぐに私は気付いた、すべての花が、さまざまな種類の蛾に酷似していることに。乾燥花のように茶色味を帯びたものが多く、そうでないものもどこか寂しくくすんだ、あるいは沈んだ色合い、さもなければ毒々しく鮮やかな彩りであったりもした。ひらひらとしたオオミズアオの花、ぽってりとしたベニススメの花、ほのかな金色をおびた薄茶の小さな花や、焦茶色の大きな花弁に目玉状の奇怪な模様のある花も、夜風に揺れて咲いていた。いずれの花も、昼の花々あるいは蝶々に対して、畸形的な、病的なものであるかのように見え、不安な気分にさせた。だが、それらは青い月明かりの下で、たしたに、美しかった。幽霊のように、死のように美しかった。
 ふと、天国とはこのような所ではないか、と思った。世の中で思い描かれている天国は、日の光に満ちて明るく、すこやかな花々が咲き広がる所であるのに違いない。だが、夜を愛する者たち、昼の世界においては変わり者である我々のために、特別に用意された天国というものも、あるのではなかろうか。風変わりな魂が、そのままに、あるがままにあることを認められている。この世では異端者であっても、あの世ではそうではない。
 ——真夜中に目覚めている詩人のための天国である。
何者かのそんな声を聞いた気がした。
 うたた寝からさめきらぬ心に映ったつかの間の幻影であったことは、言うまでもない。宿の垣根の向こうは、夜風にさざめく笹原であった。それは、月光を浴びて銀色の細い帯のようにみえる小川によって、さらに向こうに広がる畑と区切られていた。そして、それらすべてが山林に囲まれた、あまり広くない谷間の平地であった。それはそれで美しい光景であった。そしてまた、夜を愛する者には、現実と夢とはそうはっきりと区別すべきほどのものではない。

友誼

 森の中の小さな明るい野原、そこに私は埋められています。私は殺されました。どのようにしてかは、こまごまとは申しませんが、ただ、愉しみのために殺されたとだけ申し上げておきましょう。私のような娘たちは、ほかに、この森に幾人も埋まっております。誰にも知られず、懐かしい人々の誰にも会えぬままに、私どもの肉体は森の下草の陰に朽ち果てました。はるか昔の娘たちもおります、何十年、百年、あるいはもっと昔からここにおられる方々が。私からしますと、祖母、曾祖母、さらに遡る世代にあたる方々ですが、もしも彼女たちの姿を、木立ちの中を漂う淡い影として目にすることのできる方が、みなさまのうちにいらっしゃいますなら、きっと若い女の姿ばかりを御覧になることでしょう。私どもには、永遠に、時が止まってしまったのですから。
 さらにまた、哀れな死に方をした幼い子供たち、若い男の方々もおります。もっと年かさの方々も、男女問わず、無惨な屍として埋まっております。森のあちらこちらに、骨となって転がり、小川の岸の白い石にまぎれ、骨片となって野原に散らばっております。殺された方々の多くは、やはり、結局のところ誰かの愉しみのために殺されたのです。何かを奪うために、あるいは何かを得るのに邪魔で、あるいは何かを得られなかった腹いせに、つまりは誰かの満足のために彼らは犠牲になったのです。恐ろしい話とお思いでしょうか。しかし、みなさまの生きておられる世の中も、現に、たいした違いはないということに、お気付きでしょうか。
 人々が、人々を踏みつけて歩いています。より高いところに自分を置くために。より低いところへ沈まぬように。あるいは既に踏みつけにされていることの腹いせに、他の誰かを踏みつけます。そのようにすると愉しく感じるようです、暗い愉しみですが。常に、自分は他の誰かよりは上にあると、そう思っていなければ生きていけない人々の、何と多いことでしょう。いや、そうでない人など、はたしていらっしゃるのでしょうか。互いが互いを踏みつけにする、その複雑な踏みつけ合いの関係それ自体によって、世の中というものが形作られているようにさえ思えるのです。誰もが誰かの犠牲の上に暮らしている。みずからの足が血に濡れていることに、多くの方々が気付いておられるならば、まだしもなのですが……。そうしたことのひとつのあらわれとして、私どもの死がありました。ですから、何も特別なことではない。何も珍しいことではないのです。みなさまの日々の足もとと、私を埋めているこの野原とは一続きです。
 そのような世の中で生き抜くことに疲れ、また自分の足が常に血に濡れていることの自覚にも疲れ果てて、しばし街を離れ、ひとり山野をさまよい歩く方々が、稀にいらっしゃることを存じております。そうした方々には、この森の景色がこのうえもない慰めとなるようです。そうした孤独な人々の魂を、森は決して傷つけません。森は、愉しみのためだけに殺すということを、決していたしませんから。私どももかつてこの景色の中に、優しく受け入れられました。朽ちた肉体は、木々に、草に、数知れぬ生きものたちに摂り込まれ、彼らを養い、豊かにしました。そして私どものほうは、彼らから静かな慰め、深い安らぎを受け取りました。鳥たちの歌、せせらぎの音、波の輝き、魚たちのうろこの煌めき、蝶々の翅の彩り、風の声、日の光と月の光、そういったものを喜びとして日々を過ごしています。それらはまったく無償で、限りなく豊かに与えられ、心を満たしてくれるものです。ですから、この地をさまよう人々が安らぎを得られるというのも、もっともなことです。世の中にいられなくなった者たちとして、その方々と私どもとは、いわばお友だちのようなものなのですから。

愚者

 地平の果てまで赤い。草木も家も何もない。ただ赤錆色の礫に覆われ、平坦に広がっているばかりの砂漠である。誰もいない。何の物音もしない。空は黄色い。日ざしは強い。日ざしに褪せて黄ばんだような空の色だ。こんな所にかつて自分が住んでいたと思うと、おかしな気がする。しかし証拠に、赤い礫になかば埋もれて、古いカレンダーの切れ端、壊れた時計の破片などが散らばっている。生前の私が使っていたものだ。その頃は仲間たちもいて、いや、そればかりか、このあたりには結構な数の人々が住んでいた。少なからぬ建物が軒を連ね、自動車が行きかい、家々の庭には花が咲いていた。特に立派な街だったというわけでもない。どこにでもある、ごく普通の街並みであった。彼らがどこへ行ったのか、街がどうなったのか分からない。私が死ぬとき、それらはまだそのままにあった。死はあっけないものだった。あたかも真夏のほんの二、三日の日照りのために、萎れ、倒れてゆく草のようだった。私がいなくなっても、街と人々とは変わらずありつづけるものと思っていたが、それらもまた、あっけないものだったようだ。土の色にまぎれて見分かちがたいが、わずかに、赤く錆びた杭のようなものが数本、乱暴に突き刺したように立っているのは、建物の鉄骨の名残りである。私はそれらを、悲しむわけではない。ぼんやりと、からっぽに近い心で、ただ眺めている。今ではもう、あるともないともつかぬ身になってしまった私には、心というほどの心もない。頭骨の眼窩のようなうつろさ、しかし不幸ではない。
 地平のかなた、黄色い空のひとつの方角、それが四方位のいずれにあたるのか知れないが、大地と接するあたりの空だけが、おだやかに白い。焼け跡のような大地と、熱病に罹ったような空とのあいだで、そのあたりだけが何がなし平和に見える。かつて私が夢見、たまさかに味わいもした、幸福というものの記憶が、実感は伴わないもののはるかに思い出される。そちらへ行こうなどという情熱はもはやありはしない。しかし、ふと思う。かつて私の内にあり、死ののちもなお自分の死に気付かない愚かな私の部分が、いつの間にかそちらへと無邪気にも駆け去っていったのではないかと。だからこそ残されたものはこのようにうつろなのではないか。いや、愚かな私は、実際、不死であるのかもしれない。そもそも死んでいないのであれば、死に気付こうはずもない。かつての幸福、夢、希望、力、心の内にあかあかと燃えていたすべてのものが、去っていった者のもとにあるような気がする。

慈雨

 小学校の放課後を、夕方までひとりで遊んだあと、いつものように家の近くの坂の上に私は立って、母の帰りを待っていた。その頃住んでいたのは、古い街で、朽ちかけたような民家と、寺と墓地ばかりが目についた。細い迷路のような道に、人通りはほとんどなかった。多くの人々は、新しい、住みよい街へと移ってしまったのだ。墓地に鬱蒼と茂った木々が風にざわめき、鳥の声が響いていた。私は傘をさしていた。血の雨が降っていた。母に持たされていた傘は、薄い朽葉色で、小学一、二年という年頃には似合わないようだったが、眺めているうちに心がしずまり、やすらいでくるその色を、子供なりに私は気に入っていた。だが、その傘が雨を受け、雨ははじかれて赤い玉となって転がり、また幾本もの赤く細い筋となって流れ落ちる、その様子を内側からぼんやりと透かして眺めていると、この朽葉の傘に生命が息づきはじめたようで、私はしばらく見とれていた。雨が降りはじめたのはつい先ほどからのことである。
 昼は晴れていた。学校から帰って、いつものように、ひとりで墓地で遊んでいた。私はほとんど誰とも話さない子供だった。墓地や、迷路のような道をさまよい歩いているだけで、何時間でも楽しく過ごすことができた。あまり手入れされていない墓地の、木陰の雑草のなかに転がっていた、瓜ほどの大きさの石を持ち上げてみると、無数の蟻が沸いて出た。蟻は狂ったように右往左往していた。土のなかの小さな部屋がいくつも見え、白や黄色の粒々とした卵やさなぎがあった。また、やや日当たりのよい一角にむらがり咲いていた、はこべの小さな白い花、とるに足らないようなその花さえも、目を凝らしてみれば驚くばかり、細やかで不思議な様子をしているのだ。その日は、墓のあいだの細い通路、舗装されておらず、木々の陰になって薄暗くじめじめしているところに、少しばかり木もれ日が当たっていた。傾きはじめた太陽の、黄色い光であった。そこに、誰かに踏みつぶされて地面にめり込んだ甲虫の死骸があった。踏み割られた甲虫の翅が、緑と赤との金属光沢をもって輝いていた。図鑑で見たおぼえがあった。玉虫だ、と思った。その子供向けの図鑑には、玉虫厨子というもののことも記されていたので、子供ながらに尊く有難いものを見た気持ちになった。
 今は、青いあじさいの花が、血の雨に打たれて紫がかってみえる。私の立っている細い坂道の、片側に古い民家の庭があり、さまざまの花が咲いているのだ。真紅の芍薬が、同じ色の雨をひらひらとした花弁に溜め、滴らせている。庭の隅にはびこったどくだみの花もすっかり赤い。道のもう一方の側は寺の敷地の土塀である。土塀の向こうはやはり墓場だ。土塀の下のほうは石積みになっており、そこを透明なかたつむりがゆっくりと這ってゆく。肉の部分も、殻も、ごく淡い茶色に透きとおっており、臓器や網の目のような血管がそのまま見える。しきりに脈打っている青い小さなかたまりは心臓だろうか。殻にはうっすらとオパール様の遊色があり、しゃぼん玉に少し似ているなと思う。雨音の遠くで雉鳩が鳴いている。
 道のそこここの浅いくぼみに血が溜まり、さらにそこに降りつづく血のしずくが、丸い波紋をきりもなく描いている。道の端に骨片がひとつ転がっているのは、魚の骨だろう。このあたりをうろついている猫どもに、餌をやる老婆がいるのだ。年寄りの多い街である。若い者はたいてい新しい賑やかな街へと去っていってしまった。あじさいや芍薬の咲く庭の隣、坂をのぼりきったところの、ちょうど私が立っているすぐそばに、ひどく古びた家がある。この家も老人の独り住まいで、寂しいのか、私が通りかかるとよく声をかけてきた。言っている意味がよく分からなかった。私をほかの誰かと勘違いしていたらしかった。その老人もしばらく前に亡くなったと聞いた。空き家になった家の窓から数か月前のカレンダーが見えた。柱に古い丸時計がかかっていたが、夕方だというのに、十一時あたりをさしていた。それが昼であるのか夜なのか知れない。それでも針は動いている。ただし、ときおり長針が次の刻みに移りかねて、痙攣したように震える。あるときなどは、突然、おそろしいような勢いで、二、三回、逆回りをした。何か目に見えないものの指が戯れに回しているかのようだった。そういえば、ある晩たまたまここを通りかかったとき、すでに誰も住んでいないはずの部屋の窓に、ぼんやりと灯りがともっていた気がしたのだが、見間違いだったろうか?
 時計は狂おうと、ほどなく母の帰る時間であるのは間違いない。西の空が雨雲越しの夕日で淡い薔薇色に染まっている。私は誰とも話さない子供であったが、母とは心やすく、さまざまのことを話した。私は母を待ち焦がれている。もうじき会えると思うと嬉しくてならない。当時、母はいつも気に入って黒い服を着ていた。私は恋人を待つように、その黒衣の人影を待ち望む。喜びに、私のまわりのすべてが愛おしく美しい。私は、血の雨に息づく傘の下から、片手をさし出し、掌に雨を受けてみる。指の間から、手首から、たらたらと流れ落ちる。私は傘を下ろして天をふりあおぐ。顔に、髪に降りそそぐ。頬をあたたかに伝い落ちる。私はそれを快く感じながら、幼稚園の頃に、意味の分からぬままに習い覚えた歌を口ずさむ。それは尊き御母を讃えるものであるとは教えられていた。Ave Maria, gratia plena...

終景

 草むらに逃げ込んではみたが、見る間にすべての草の葉がしおれ、黄ばみ、からからに乾いていくのである。ひどい暑さだ。そして気味の悪い静けさであった。空を仰ぐと、夕暮れの色を帯びた青空の高みに、やはり暑さにやられたのだろう、細かな網の目のような亀裂が入り、乾いて少しずつめくれはじめ、ほどなくはがれ落ちてきそうな気配であった。そっと草むらから頭を出して、地上の様子をうかがうと、さきほどまで森のなかの緑の野原であったものが、いまや一面の枯れ野である。木々も黒く焼け焦げたようになってしまった。地平のあたりに見える太陽は、膿みただれた傷口のように赤い。そのまわりの空は、腫れて熱を持った皮膚の淡紅色である。なるほど、これは、世界の終わりである。
 人間の姿は見えない。もともと人の来ない場所ではある。皆がどうしているのか分からない。街のほうから火の手や煙が上がっている様子はない。が、不気味な静けさである。森よりも先に、悲鳴をあげる間もなく、やられてしまったのではないだろうか。そうでないとしても、この有様では、誰しも、私も、もう長くはない。鳥の声もしない。いつもならこのあたりには鳥たちの声が響きわたっているというのに。とはいえ、生きて動くものがまったく絶えてしまったというわけでもない。
 鶏の足を逆さに突き立てたようなもの、つまり、奇妙な茸のようにも見えるのだが、高さが二メートルほどある、照りのある飴色をしたそれらが、いくつも枯れ野の上を動きまわっている。群れをなすでもなく、それぞれ好き勝手に動いているようである。いかなる目的があって動いているのか分からない。目的などなさそうでもある。ともあれそれらは生きている。また枯れ野の上の空中を、大きな真っ黒な蝶が飛んでいる。片側の翅だけで私の手よりも大きいのだ。翅の厚みもあり、重たいのか、不器用に、ばたばたと飛んでいる。よく見ると、その蝶には翅のほかないのである。翅を支えるはずの胸部もなく、腹部も、頭部も何もない。ただ両の翅を根元の一点でつなげただけで、どうやって動いているのか見当もつかないが、どうにか動いてはいる。ほかにも、鶏の足のような茸のような生きものの頭部より少し低いあたりから、地表近くにかけて、野のあちこちに、小さな花火のような、直径二十センチほどの球状の火花が明滅している。あちこちといっても、すっかり散らばっているわけでもなく、いくつかずつ、蚊柱のような具合に縦に群がって、白や紫、金色などの光を放っている。まさに蚊柱のように、それらも生きているのでないかという気がしてきた。さらに遠く、ようやく視力の届くあたりの野のはずれに、どうしても無生物としかみえない、つるりと白い、ごく単純な円錐型をしている、高さ五十センチほどのものが、バッタのようにしきりに跳びはねている。白いうちにもわずかな薔薇色を感じられなくもないのが、それが生きものであることの証だろうかとも思ったが、どうやら夕日の色をぼんやりと映しているだけのことらしい。それにしても動きはたしかに生物の動きである。目の届かないところにはさらに多くの、おかしな連中がうごめいているのだろう。
 終わりつつある世界で、それまで世界が存在を許してこなかった生きものたち、生きものとはこうしたものであると世界が定めたところから外れたものたちが、ここぞとばかりに現れはじめたのかもしれない。それが、世界がすっかり終わってしまうまでのつかの間のことにすぎないのか、それとも、そののち始まる新しい世界で栄えるものこそが彼らなのだろうか。
 私は、なにも野のはずれにまで目をこらす必要はなかったのである。私が隠れている草むらの、目の前の枯れ葉の上に、同じ枯草色をしているので気付かなかったのだが、奇怪な芋虫が這っている。その芋虫には、頭部がない。両端いずれも尾部である。つまり口がないのだから、草の葉を食べようというわけでもなく、野原が枯れ野になっても差し支えないのかもしれない。それにしても、ゆっくりとではあるが動いているのは、餌を求めてのことでないなら、いったい何の目的があってのことなのだろう。ひとたび気がついてみれば、あちこちに芋虫がいる。枯れた葉の上、茎の上を、二つある尾部のいずれかを前にして、理由の知れない、あるいは理由などないのかもしれない、ゆるやかな移動を続けている。黒い翅しかない蝶の幼虫ではないかという気がした。どれほどいるのか数えてみようとしたが、見えるかぎりの草むらの奥のほうにまでうようよと這いまわっているので、うんざりしてやめた。草の根元へ視線をふと落とすと、土の上に転がっている小石のひとつ、丸く平らな灰色の石が、三センチほど動いては止まり、動いては止まりしている。軽くはじいたおはじきの動きに似ている。小さな生きものが下に隠れて、小石をかついで動いているのか、あるいは小石に擬態した生きものかもしれない。拾い上げてみたが、下に生きものなどおらず、小石は単なる石である。風化した砂岩である。ふたたび土の上に置くと、今度は強くはじかれたおはじきのように、すばやい動きで草むらの奥へと滑っていってしまった。私は嘆息し、空を仰いだ。暑い。さきほどよりさらに暑くなり、堪えがたくなってきた。あとどれほど意識が持つかしれない。
 怖くないわけではなかったが、仕方ないことだという気がした。世界はすでに一変し、私が慣れ親しんできたあの世界ではなくなってしまった。今までの秩序は失われ、あるいは私には理解できない秩序に支配されることになった世界で、たとえ生きていけるとしても、それを生と呼べるだろうか。死の苦しみが長引きさえしなければと思う。早く終わりになればよい。
 天の亀裂はその網目をさらに細かくしつついっそう広がり、ついに剥落しはじめた。小さなかけらが少しずつ降ってくる。いくつかは私のまわりの野原にも落ちて、彼岸花のような火花を散らした。血赤色に光るその花は、まわりの枯れ草をじりじりと焼きはじめた。かげろうが立ち、その向こうを、膿を持った傷のような太陽がゆっくりと沈んでゆく。
 死後の私がどうなるのかは、私の死後に世界がどうなるのかと同じほどに分からないが、おそらくはただ消えてしまうのだろうけれども、もしも意識が残るのであれば、世界がどうなるかなど見届けたいとも思わない。知ったことではないのである。すでに滅びてしまった懐かしい世界、気に入らぬことも多々ありはしたが、今となってはひたすらに愛おしい、あの美しい世界のことばかりを、いつまでも夢に見ながら過ごそうと思う。

旧交

 私が私に助けを求める。あれが不安だ、これが怖いと泣き騒ぎ、痩せた指を私に食い込ますようにしがみついてくる。いつものことだ。あの不安、この怖れを、ひとつひとつ取り除いてやっても、必ず、すぐさま新しいのを見つけてきては騒ぎ出す。きりがないのだ。あげくの果てには、とうに取りのけてやったはずの不安や怖れを、どこかから、わざわざ拾い上げてきて泣きわめく。
 私は私を振りほどき、私の部屋に置き去りにして、走って逃げた。せいせいした。私を呼び止めようとする私の声が、私の背後にずいぶん長く聞こえはしたが、悪いことをしたとは思わない。結局のところお互いにとり良いことをしたのでないか。
 ようやく自由の身になった私は、晴れ晴れとして、美しい船で旅に出た。風は追い風、空も海も青く輝いている。世界は広く、生は快い!
 甲板で快い日ざしを浴びながら、私は、捨ててきた私のことを考える。あの不安、あの怖れは、対象こそころころと変わるものの、中身は、いつだって同じものだった。とるにたらない思い過ごし、思い込みからはじまって、視野狭窄に陥り、他の考えをとることができず、がんじがらめになってしまうのだ。はじまりの、とるにたらなさに、どうして気付かないのだろう。まるで生命が脅かされてでもいるような、いや本当に、死ぬのでないかと怯えているような、あの異様な焦燥感、切迫感は、何なのだろう。……いや、じつは、気付きたくないだけなのではないか。自分で気付いて、自分の力で何とかするかわりに、誰かに何とかしてほしいのではないか。つまり、あれは、甘えではないのだろうか。そう考えて、私は、やはり私を置き去りにしてきたのは正しい判断だったのだと思った。ひとりきりの部屋で頭を冷やすがいいのだ。
 そもそも、不安も怖れもまるで感じない者などいるだろうか。むしろ、不安や怖れを感じることこそが、生きることではないのか。感じつつも、立ち向かっていくのだ。誰だってそうだ。おそらく、立ち向かうほどに不安や怖れはやわらいでゆき、逃げるほどに大きくなってゆく。つまり、あんなにも泣きわめくという、それ自体が、立ち向かう努力をしていないことの証拠なのだ。だから駄目なのだ。
 要するに、いちじるしく自己中心的なのだ。おのれ可愛さに目がくらんでいるのだ。人格的に未成熟なのだ。子供の駄々だ。それにひきかえこの私は、なかなかの大人であると、そう考えてみると嬉しくなった。
 そして次第に、私は私のことを忘れていった。なにしろ、空も海も青くまばゆい。古くせせこましい部屋に見捨てられた私のことなど、考えても退屈なばかりだ。世界は広い。ついに私は、私を忘れ果てた。追い風は続き、天気はよろしく、私の美しい船は、世界一周でもしたのではあるまいか。あるとき、船は見覚えのある港についた。それは私がこの旅をはじめた港であった。さすがに自分の部屋のことを思い出し、やや気にかからないでもなかった。あの部屋で、私は元気にやっているだろうか。少しは頭を冷やして、まともな大人になっただろうか。
 私は陸に上がり、昔に変わらぬ街路を歩いて、やがて懐かしい建物についた。扉を叩いたが、返事はない。留守かもしれない。開けてみると、私がこちらを向いていた。哀訴の表情で、何か懸命に叫んでいたらしい口の開けかたをして、扉のほうへ手をのばし、出てゆく者を引き止めようとする姿勢のまま、床に倒れ、ミイラ化して死んでいた。