緑影

森のなかの小川のほとりに白い花が咲いていた。黒く濡れた石の間から、すらりとした茎をのばし、縁に細かな切れ込みのある葉を幾枚も大きく広げ、小さな四枚の花弁からなる花を、茎の頂に、花冠のように群がり咲かせていた。なずなに少し似ていたが、ひとつ…

夕鐘

世界の果ての岩山の頂に、石造りの巨大な塔がある。やはり石造りの、ただの四角い箱でしかないような、まったく装飾のない三階建ての建物を台座として、その数倍の高さの、これも何の飾り気もない、単に細長く引きのばされた円錐形というばかりの塔が載って…

老残

美しかろう、林立する石柱、巨大な石壁、そこに彫られた無数の神々の姿は。旅人よ、お前が今の今まで驚きの目をみはり、息をのんで見ていたものは、古代の神々の形見なのだ。今は私の姿に驚いているようだが、この荒野のただなかに見捨てられ、忘れ去られた…

訪問記

地元の医科大学の標本室に、特別に入室する許可を得た。通常、学外の者については、医療関係者のほかは入室を認められないのである。たまたま私の知人がその大学で教鞭を執っており、頼んでみたところ、案外すんなりと許可が下りた。標本と呼ばれてはいるも…

鐘塔

大理石の壁に太古の貝の化石が見られることがある。石の模様にまぎれて気付かれにくいものだが、ひとたび気付いてしまえば、もう貝のかたちにしか見えない。それに類したものを私は見つけたように思った。学校の階段の腰板の、緑色をした石材のうちにである…

悪霊

消毒液の臭いがするので、この部屋もまた病院の一室なのだろうとは思うが、しかし病室ではあきらかにない。あまり広い部屋ではなく、中央にやや大ぶりの白い机が置かれ、まわりに灰色のスチールの椅子が何脚か配され、壁に沿って書棚が並び、医学書ばかりが…

聖痕

林の中の小さな町の、私の家の裏手にのびるゆるやかな登り坂を、しばらく歩いてゆくと、もともと広くはないその道はやがていっそう細くなり、勾配も急になって、森の中を辿る山道になる。しばらく前にその町に移り住んでから、私はこの道が好きで、よく歩く…

夏日狂想

炎天下、赤錆色の砂利の上で、鉄道のレールが血の歌を歌っている。かげろうが立ちのぼる。沿線の森は鬱蒼と茂り、蔓草をびっしりと絡みつかせつつ、青空へ隆々と盛り上がり、緑の大伽藍のようだ。神が血の供儀を求めている。この季節、死肉にたちまち群がり…

十歳になるかならぬの頃だったと思う。曾祖母の何回忌かで、かつてその曾祖母が住んでいた田舎の大きな古い家に、私の両親と一緒に幾夜か泊まったのである。家のまわりには竹林と水田が広がり、さらにそのまわりを低い山に囲まれている、小さな集落であった…

友誼

森の中の小さな明るい野原、そこに私は埋められています。私は殺されました。どのようにしてかは、こまごまとは申しませんが、ただ、愉しみのために殺されたとだけ申し上げておきましょう。私のような娘たちは、ほかに、この森に幾人も埋まっております。誰…

愚者

地平の果てまで赤い。草木も家も何もない。ただ赤錆色の礫に覆われ、平坦に広がっているばかりの砂漠である。誰もいない。何の物音もしない。空は黄色い。日ざしは強い。日ざしに褪せて黄ばんだような空の色だ。こんな所にかつて自分が住んでいたと思うと、…

慈雨

小学校の放課後を、夕方までひとりで遊んだあと、いつものように家の近くの坂の上に私は立って、母の帰りを待っていた。その頃住んでいたのは、古い街で、朽ちかけたような民家と、寺と墓地ばかりが目についた。細い迷路のような道に、人通りはほとんどなか…

終景

草むらに逃げ込んではみたが、見る間にすべての草の葉がしおれ、黄ばみ、からからに乾いていくのである。ひどい暑さだ。そして気味の悪い静けさであった。空を仰ぐと、夕暮れの色を帯びた青空の高みに、やはり暑さにやられたのだろう、細かな網の目のような…

旧交

私が私に助けを求める。あれが不安だ、これが怖いと泣き騒ぎ、痩せた指を私に食い込ますようにしがみついてくる。いつものことだ。あの不安、この怖れを、ひとつひとつ取り除いてやっても、必ず、すぐさま新しいのを見つけてきては騒ぎ出す。きりがないのだ…

紙片

亡き祖母がながらく守ってきた古い土蔵の中で、私は妙なものを見つけた。埃だらけの棚の上、何が入っているやら知れぬ木箱や壺の陰に、一枚の紙片が落ちていた。置かれていたのではなく、落ちていたのだと思うが、もしかするとわざと無造作に、何でもないも…

七歳の夏から住みはじめた森のなかの家で、はじめて迎えた冬の、ある日の朝早くのことである。それまで住んでいた街なかの家よりも、ずっと寒い。なにしろ家の外には、街の暮らしではほとんど目にしたことさえない雪が、この数か月来降りつづき、深々と積も…

孤客

彼がまだ幼い子供だった頃のことである。彼の住んでいたあたりはよく雪の降るところであったが、その夜はことに降りつもり、集落からやや離れて建つ、彼の生家である大きな屋敷のまわりは、深々と雪に覆われ、しかもさらに降りつづいて止む気配がなかった。 …

衛兵

幼い日に林のなかで見たもののことを、彼は今なお思い出す。記憶のなかで、林の奥へと続く道をたどるとき、それがそのまま自分の心の奥深くへ向かっての道のりであるように感じる。彼をとりまく木々の梢は日の光を透かしてきらめき、風にざわめき、緑の波の…

舟旅

北のかなたの国で、今しがた日の沈んだ海を、さらに北へ向かって漕いでゆく小舟があった。風変わりな旅人がひとりきり乗っている。薄暗い空の下を、さらに光とぬくもりから逃れようとするかのように、最も暗い水平線へ向かって漕いでゆくのだ。身を切るよう…

聖堂

正午近くの太陽が輝いている。おそろしく暑い。歩いているうち、ときおり意識が遠ざかる。太陽のせいだろうとは思うものの、もしかすると私自身、熱があるのかもしれない。赤い、大きな、古い煉瓦造りの建物のまわりを歩いている。建物の内にも外にも、誰の…

すでに照明の消された廊下の、非常灯だけがともっている闇のなかを、この街のどの学校よりも地味な黒い制服を着て、ひとり歩いているお前、子供の頃の私、どこへ行こうというでもなく、ただ他の子供や教員たちの目から逃れるように歩いている。クラブ活動に…

山道

存じております、あなたはもはや生きてはおられない。あなたの血、あなたの引き裂かれた肢体、あなたの片手や、脳髄の一部らしきもの、あるいはどの部分とも知れない肉片、それに引きむしられた髪の毛が、そこここに散らばっているのを私は見たのですから。…

旅人

雪が降っている、こんな真夜中に、窓の外をひとり歩いてゆく者がある。私が彼に目をとめると、彼もこちらを見た。ぼろぼろの衣をまとった、疲れはてた、旅人ではないか。さらに見れば、腕と脚と頭とに、包帯を巻いている。血のにじんだ跡のある包帯は、泥や…

英雄

燃えあがる夏の日、南向きの私の部屋はおそろしく暑く、私は部屋に入るなり窓を開けて、椅子に腰をかけ、風が通うのを待ったけれども、風そのものが燃えていて、いっこうに涼しくならない。暑さにぼんやりとした心が、やがて妙に、うっとりとしてきた。背も…

白昼の光に大伽藍は甍を輝かせ、屋根の下は夜のように暗い。正面の丹塗りの扉を私は叩いた。扉は固く閉ざされたままで、内から微かな音もしない。もし、もしと大声で呼ばわってもみたが、なんの返事もない。困惑して、境内をぐるりと見回してみたが、敷きつ…

騎馬隊

こんなふうに真夜中に起きていて、しかも、理由らしい理由もなしに、感情は荒れている。いつものことだ。そしていつものように、こういうときの気晴らしは、現実から逃避して幻想の世界で遊びまわることだ。幻想の世界で、部屋の窓を開け放つと、窓の外は真…

詩人

月光が少女を照らしている。ほどなく取り壊される予定の、古い木造の体育館の窓辺である。館内の壁際の、さびた鉄の螺旋梯子を上ったところに、大きな窓がずっと並んでおり、それにそって、窓を開閉するためだけの狭い通路、というより足場といった程度のも…

太陽

深夜の私の部屋で、私はひとつのことを、考えるともなしに考えていた。あるいは、夢見ていた。いや、夢のほとりにたたずみ、夢にくるぶしまでをひたしつつも、そこにすっかり身を投じてしまうことはためらわれ、そのためらいについて、考えるともなしに考え…

天童華

もはや生命の尽きかけたようにみえる木が、夜明けとも夕暮れともつかない赤みをおびた空の下に立っている。巨木だが、葉はすでに乏しく、幹にいくつか大きな洞ができて、そこからすでに朽ち始めている。大勢の人々がその木をとりまき、不安そうに見上げてい…

白い蝶

夕暮れの薄明かりのなか、私のすぐそばを、白い蝶が一匹飛んでいった。模様も何もない、ただ真っ白い蝶である。翅の脈に沿って細かに裂けた、ぼろぼろの翅をようやく動かして、私の肩ほどの高さを漂うように飛んでいった。そのさまは、どことなく幽霊じみて…