鐘塔

 大理石の壁に太古の貝の化石が見られることがある。石の模様にまぎれて気付かれにくいものだが、ひとたび気付いてしまえば、もう貝のかたちにしか見えない。それに類したものを私は見つけたように思った。学校の階段の腰板の、緑色をした石材のうちにである。大理石に似てはいるが、より安価な石、あるいは人工の石であったかもしれないが、その緑色の上に複雑な網目のように広がる白い線や、稲妻のように走る灰色の筋、点在する黒いしみのような斑などを眺めているうち、そうした模様のひとつの部分が、こちらを向いている髑髏に見えてきたのである。それはひとたびそう見えてしまえば、もうそのようにしか見えない。そこは校舎のなかでも人通りの少ない、特殊教室ばかりが集められた棟の、最上階にあたる四階で、ことに放課後には、そのあたりの特殊教室を活動の場とするサークルもない、まず誰も来ない場所であった。非常に静かであったので、もしも誰か来れば、小さな足音であっても静けさを破って響き渡っただろう。私は階段に座り、膝に頬杖を突いて、かたわらの腰板のそれを眺めていたのである。階段はおそらく屋上につながっているのだろうが、踊り場で折れてから上方へ続いていて、その先の様子は私の場所からは見えない。踊り場の曇りガラスの窓から六月はじめの夕方の黄ばんだ光がさしている。窓は閉まっており、人通りもないので空気がよどみ、埃っぽく、蒸し暑い。壁の髑髏を恐ろしがって眺めていたわけではない。世の中から孤絶したようなこの空間を、私と共有している不思議な存在であると感じていた。暑さのせいで頭がぼんやりしていたせいでもあっただろう。
 髑髏が私に話しかけてきた。暗い声、怒りであるのか恨みであるのか、黒い感情のこもった、低い女の声だった。
「こんな所で何をしている」
私はさほど驚かなかった。むしろ、思いもかけず話し相手を得たという喜びさえおぼえつつ、
「あなたこそ、何をしているの」
と応じた。髑髏は黙ってしまった。困惑しているようだった。
 理由もなくこんな所にいはしない。もしも再び問われれば、私には、答える用意がなくもなかった。私はサークル活動をしていなかった。しかし帰宅しようとも思わなかった。家には、ささいなことで火がついたように怒り出し、私を罵り、殴る親がいた。殴られた痕はしばしば青黒い痣になった。私の幼い頃からそうだったが、この時期に一層ひどくなったのは、どうやら私が生意気になってきたというのと、学校の成績が下がりはじめたというのが理由であるらしかった。しかし、すぐに暴れ出す親というのは、はたして子供の勉学の妨げにならないものだろうか。親もずいぶん、頭が混乱していたのだろう。私の頭もまた混乱していた。一日のかなりの時間、ときに眠っている間でさえも、恐怖感が心を去らず、そうでないときには、疲れのせいだろうか、ぼんやりと放心していることが多かった。そういう状況下でそういう精神状態に陥るのは、仕方のないことだとも思えたが、また一方、自分の場合はことさらに、頭の調子を崩しやすい血筋なのではあるまいかと、わが身を案ずることもあった。そういったことを友人たちや先生に相談しようとは思わなかった。というのも、彼らの暮らしぶりは私から見てあまりにのどかで、それゆえ私の話すことを理解してくれそうな気がしなかったのである。冗談だと思われるか、あるいは本当のこととして受け入れられても、今度は私のことを、面倒な問題を抱えた厄介者とみなして、敬遠しだすのではないか。杞憂という気もしたけれども、しかし当時の私の感覚として、私と彼らとの間には何か、目に見えない膜のようなものがあり、それによって実際に隔てられているのだという、妙な感じが常にあった。そんなことがあるものかと、自分でもおかしく思いはしたが、実感としてどうにも否定できなかったのである。私ひとり異なる世界に迷い込んでしまったのだという不安を抱きつつ、表向き何事もなげに人々と交わるよりも、むしろすっかり一人でいるほうが、不自然な努力をせずにすむだけまだしも安らかにいられるのだった。そういったことを石のなかの髑髏に話すつもりはあったのだが、それ以上尋ねてこなかった。別のことを尋ねてきた。
「私を不気味に思わないのか」
思わないでもなかったが、それよりも親しみがまさっていた。私は自分の感じているとおりを答えた。
「むしろ、こんなところにいる者同士、どこか似ているんじゃないかと思ってる」
髑髏はまた黙った。歯ぎしりの音がした。それから、少しぼやけてはいるものの、生きている人間に似たかたちをとって、石から出てきた。石と私のあいだにしゃがみ込み、あらん限りの憎悪をこめて、といった上目遣いで私を睨んだのである。あらん限りでその程度ならばさほどでもない、という気がした。おそらくはひどく悲しい、つらい思いを抱えて、一人きりでずっとこんなところに隠れていたら、こんなふうにもなってしまうものなのでないか。私には気の毒な感じがしたのである。骨そのものと大して変わらないほど痩せこけ、髪はばさばさに乱れ、皮膚はミイラのように乾き、一見したところ老婆のようだったが、着ているものはこの学校の制服である。干からびた皮膚ではあるが、皺はなく、髪に白髪があるでもなく、どうやらこれは少女なのではないか。落ちくぼんだ目の、憎悪の光は、人間たちから苛め抜かれて兇暴になった野犬の目を連想させた。じつはそれは憎悪というより、深い不信のまなざしなのかもしれないとも思った。殺されたか、殺されるように自殺した少女なのではあるまいか。そういう出来事があったと聞いたことはなかったが、年月が経つにつれ人々の記憶から失せていった出来事であれば、私の耳に入ることもない。事故死や病死であったとしても、いずれ大きな無念を抱いて死んでいった者であろう。
 私自身が生の世界からなかば離れて暮らしていて、生の世界が必ずしも私の日常ではなかった分、そうした存在に出会っても、何かありふれたことのような気がして、ただ相手の顔をあまり長いこと眺めているのも変である、というだけのことから、私は踊り場の窓へ目をやった。曇りガラス越しの光は、その向こうの太陽が傾きを増すにつれ、黄ばんだ白からはっきりした黄金色へと移りつつあった。その輝きに目を奪われた。終末の感じがあるものが好きであった。寂しさや悲しみよりも安らぎをおぼえたのである。
 すると、壁から出てきた者が言った。
「夕日が好きなら、もっとよく見せてあげよう」
笑みを含んだ声であった。彼女のほうへ視線を戻すと、ぎらぎらした目で笑っているのだった。
「鐘塔に上れば、夕日と、夕暮れのきれいな街がよく見える」
言葉とはうらはらの悪意の笑みであった。鐘塔は、校舎の最上階である四階よりもさらに二階分ほど高く抜きん出た、この建物を特徴づける構造物であるが、そこに生徒が上れるという話を聞いたことがない。そもそも機械仕掛けなので、人間が鐘つきをする必要がないのだ。それにまた私は、校庭に立って鐘塔を真下から見上げ、鐘がそこにおさめられている頂の小窓をはるかに眺めながら、これはいつか自殺者が出るのではないかといつも思っていた。ベランダもひさしもなく、頂から落ちた者はそのまま地面まで真っすぐに落ちるのである。そんな危険な所に生徒が自由に出入りするのを、学校が許しているはずがない。とはいえ彼女の魔の力をもってすれば可能なのかもしれない。もしかすると、そうやって私を塔の頂までおびき寄せて、突き落とすつもりではなかろうか。私は彼女の顔をまじまじと見た。一瞬、ひるんだらしい表情が見えた。次の瞬間には、猛然と怒り出した。見すかされた悔しさから怒っているのだろうと思ったが、確実にそうであるかは分からなかった。さきほどの笑みに私は悪意を感じたが、しかし髑髏に皮を張っただけの顔では、どう笑ってみたところで善良そうな表情にはならないはずで、必ずしも彼女の本心が反映されているとは限らない。実際、彼女の怒りは、老婆めいた外見とはつりあわない、少女の癇癪めいたものであった。落ちくぼんだ眼窩の奥の目がうっすらと涙にうるみ、身を震わせ、声を張り上げて、
「私のことを悪霊だと思っているでしょう!」
それは確かに少女の声であった。私ははたして彼女を悪霊だと思っているのだろうか。申し出の善意を私はなお信じきれていない。が、そうではあっても、性根そのものが悪であるという気はしないのだった。むしろ彼女自身が、わが身のありさまを浅ましい悪霊になりはてたものと見なし、それを恥じ、そうであるからこそ私の態度に対して敏感に反応しているのではないか?
「思ってませんよ」
私は軽く答えた。そして、突き落とすつもりであるのなら、それはそれでいいのではないかという気がしてきた。すでに生の世界の外へいくらか踏み出してしまっている私である。死というものがさほど自分にとって疎遠だという気がしないのだ。それより、鐘塔に上れるというのは本当だろうか、という好奇心が強くなってきた。
「この階段を上がった先が鐘塔」
彼女はそう言いながら立ち上がった。埃が舞い上がって夕日の光の中にきらめいた。そして階段を上りはじめたので私も後に続いた。踊り場にさしかかったとき、彼女の顔が見えたが、暗い顔であった。怒りや恨みの暗さではない、もっと内向的な暗さで、憂いあるいは悲しみといったものではないかと思われたが、髑髏同然の顔とあってはよく分からない。ただし、心なしか頬のあたりがさきほどよりもふっくらとしてきて、皮膚も多少の潤いを取り戻しているようでもある。踊り場からさらに上りにかかると、私にはもう彼女の後姿しか見えない。
 階段を上りきると、屋上へ出るドアがあった。校舎の他の場所の、もっと賑やかなところにある屋上へのドアと、まったく同じ型である。しかしドアのかたわらの、他の場所なら壁しかないところに、もうひとつそっくりなドアがあった。私たちが来たときにはすでに開け放たれていたそのドアの向こうは薄暗く、いま上ってきた階段の幅の半分にも満たない、細い、急な階段が上に向かってのびている。鍵さえかかっていないとは一体どうしたことか。学校としてこんないいかげんな管理をしているとは考えにくく、やはり彼女の魔力によって開いたのではなかろうか。彼女はそのドアの前に立ち止まり、振り向いた。はじめよりも確かにふっくらとして、より人間らしくなっているからこそ、はっきりと感じ取れる邪気の漂う笑顔であった。ひどい隈が出てはいるけれども落ちくぼんでいるというほどではない目に、私は尊大さの色を見、また私に対する嘲りの気配を見てとった。それが、ドアをまんまと解錠しおおせた自分の力を誇る気持ちから出ているものなのか、それ以外の何かであるのか判断がつきかねた。
 彼女の顔に狼狽の影がよぎった。見抜かれた、と思ったのか、あるいは不意におのれの浅ましさに心づいたのか。たちまち泣きそうな顔つきになり、
「やっぱり、私のこと、悪霊だと思っているのでしょう!」
攻撃的であるよりは、みずからを恥じて、身を隠せるところがあるならば隠れたい、それができないいたたまれなさに、逆上して喚いているといった様子に見えた。哀れであると同時に、少し面倒にも感じつつ、
「思ってませんよ。さあ行きましょう」
と促した。彼女はしばらく黙ってうつむいていたが、やがてうるんだ目を指先でぬぐいながら顔を上げ、しかし私のほうは直視しないで、軽くうなずくと、先に立って階段を上りはじめた。踊り場ごとに小さな窓がひとつあり、光源はそれらの窓のほかにない。薄暗いばかりでなく、ひやりと涼しい。反響する足音のほか何の音もしないが、よく聞くと、私の足音しかしないのである。彼女の歩みには音がない。その足運びを興味深く眺めていると、あと数段で上り切るというところで突然立ち止まり、その場にくずおれ、両手で顔を覆い、声を上げて泣き出してしまった。そして、しゃくり上げながらまたもや言うのである。
「ほんとは、私のこと、悪霊だって、悪霊だって思ってるんでしょう!」
彼女を咎めているのは私ではなく、彼女の内のもう一人の彼女であるのに、当人は一向に気付かない。鏡として使われている私は、うんざりしつつも、そうした彼女の不器用な心を不憫にも思うのだった。一方、そうまで内なる声に執拗に咎められねばならない彼女の考えというのは、どんな恐ろしい考えなのだろうと思うと、やはり、私を塔から突き落とそうとしているのだろうと思えてくる。私は嘆息したが、さほど怖いという気もしない。死んだら、彼女のようなものになるのだろうか。それならそれで仕方ない。それで何も自分が悪霊などという大それたものになるとは思わない。
「思ってませんよ。さあ、一緒に夕日を見ましょう」
 彼女は泣きぬれた顔を上げた。大きく見開かれた目に驚きの色があった。その目にはすでに邪気の影はなかった。涙によって洗い流されたとも見えた。澄んだ瞳とやわらかな頬を持つ、素直そうな、どこにでもいそうな少女の顔であった。なんだ、可愛らしい子じゃないか、と思った。
 階段を上りきってドアを開けた。黄金の光が私たちを包み、吊り下げられている鐘の向こうに何羽かの鳥がゆったりと飛んでゆくのが見え、地上には家々の屋根が小さく、そして遠くに海が見えた。正面と左右とにある窓は、ガラスも板戸もはまっていない、壁を四角く切り抜いたというばかりのものであった。すっかり普通の少女になった彼女は、私と並んで正面の窓辺に立ち、夕風に吹かれながら黙って景色を見ていた。涼しいところから出てきたばかりなので、かなり暑く感じられたが、風に吹かれて立っていると、むしろあの薄ら寒く不吉なものが吹きはらわれてゆくような爽快さがあった。私はちらと彼女の横顔をうかがい見たが、彼女のほうは景色を見ることに夢中であるらしかった。長いこと壁の中にばかりいて、自分ひとりでは鐘塔に上ることもなかったのではないか。家々の屋根を見、遠い海を見やっていた目が、やがて宙を舞う鳥たちの姿を追った。白い鳩であった。翼をひるがえして、校庭の木々の枝に舞い降りるもの、屋上のフェンスに並んで止まってはまた舞い上がるものや、なかには、私たちのいる塔の頂の屋根の上に翼をやすめているものも何羽かいるようだった。私はまた窓の真下へと目をやった。おそるべき高さであった。私は彼女のことを、いつの間にか、気心の知れた前々からの友人のように感じていて、もしかすると彼女もそう感じているのかもしれないという気がしていた。邪気はもとより、苛立ちや、ちょっとした緊張の気配さえも、彼女のほうから伝わってこなくなっていたのである。とはいえ、まだ本当に信頼していたというわけでもなかった。不意に突き落とされることもあるかもしれないと思った。しかし、その可能性を考えつめる気にならなかったのは、ひとつには、あまりの高さに、いささか目まいを起こしていたせいもあるかもしれない。ぼんやりとした心で、私はつぶやいた。
「あなたには足音がない。私には足音がある。私には重さがある。ここから落ちれば、面倒なことになる。あなたとは違う。あなたには重さがない。私にはあなたがうらやましい。あなたは私よりもむしろ、鳩に近い」
そして、それはしばらく続いていた沈黙を破った言葉であったのだから、返事があるものと何となく期待して、彼女のほうを見た。しかし返事はなく、彼女がこちらを見ることもなかった。とはいえ私の言葉を聞いていなかったわけではないのである。窓よりもやや高いところを飛んでゆく鳩の姿を、彼女は目を大きく見開いて見ていた。私の言葉をきっかけに心付いたことがあったらしかったが、心付いたそのことにすでに関心が移り、私の言葉それ自体はすみやかに忘れられたようだった。それにまた彼女は、鳩そのものを見ていたのではないのである。可愛らしい、澄んだ目は、ただ単に鳥の姿を見つめているにしては、あまりに真剣であった。鳥の姿に仮託された、彼女の心のうちにひらめいた何か大切なものに見入っているのに違いなかった。それは何だったのだろう。ひとつの希望、しかし希望についての具体的な考えというのでなく、希望に満ちた予感、ただ感じられるというだけのもの、その感じが彼女をとりこにし、われを忘れ、うっとりとして、黄金色に輝く空を見上げていた。そのとき一羽の鳩が、私たちをめがけて窓から飛び込んでくるかと見えた。まばゆい陽光を浴びた翼は、翼というよりも白い閃光であり、私は目がくらんで、一瞬何も見えなくなった。次の瞬間には、その鳩も、彼女も消えていたのである。鳩の翼にしてはずいぶん大きく、立派に輝いていたから、もしかするとあれは天から与えられた彼女の翼であったのかもしれない。
 そして私はといえば、四階の階段にもとの通りに腰かけている自分に気付いたのである。ちょうど夢からさめたような具合だったので、夢だったのかとも考えたが、しかしどうもそういう気がしない。どうしても、今しがた目の前で起きたことだという気がしてならない。それはつまり生々しい夢であったというだけのことなのだろうか。実際のところ階段の上はどうなっているのか、そこに鐘塔へのドアなどというものが実在するのか、確かめてみようかとも思った。しかし実在しなかったなら、ただちに夢であったと結論付けていいのかどうか、よく分からなかった。まだ魔物であったときの彼女からすれば、わざわざ本物のドアを使い、しかも健気にその鍵を開けたりなどせずとも、魔力で出現させたドアと階段を使って塔の上へ誘導するほうが、手っ取り早かったのかもしれない。もっとも、そのように考えるなら、鐘塔そのものが偽物であった可能性さえ考えられるわけだ。しかし、そうであったとしても、魔界へ引き込まれていたのは間違いないところで、たしかに危うい状況ではあったことになる。さりとて、そうであったとする証拠など得られるはずもない。緑色をした石の腰板、そこに網目状に広がっている白い線、稲妻のように走る灰色の筋、点在する黒いしみのような斑といったものの、どこをどうつなぎ合わせてみても、今や、髑髏の形にはどうしても見えない。それを、はじめから存在しなかったものであると考えることは、私にはできなかった。彼女は去ったのである。