荒野

 少女は荒野に立っていた。
 中学一年の夏休みの終わりに、家族揃って自家用車で旅行をしていた、その途中で休憩を取るために車を止めたのである。彼女以外の家族たちは、車のすぐそばの路上で缶ジュースを飲みながら楽しげに語りあっていた。少女ひとりが離れて、荒野の丈高い草むらのなかに足を踏み入れ、西の地平線の方を見やっていた。何ゆえというでもなく、ただ漠然と心惹かれて。
 すでに日は沈んでいた。西の空にはまだラベンダー色の薄明が残っていたが、そのほかの方角はすでに闇に塗り込められていた。風は西から吹いていた。すでに秋の冷ややかさを含んだその風を少女は正面から受け、髪を吹き乱されるがままに任せていた。
 突然、彼女はありありとした幻影を見た。西の地平から幾人かの騎士たちの黒い影が、荒々しい鞭遣いで馬を駆りながら、物凄い速さで近付いて来るのを。薄暗がりのなかで見えるはずもない馬どもの蹴立てる砂埃までが、彼女の眼にははっきりと見える気がした。しかし蹄の音は聞こえなかった。あたかもその蹄が宙を蹴って駆けているかのように。
 砂埃は猛然と立ちながら、しかし確かに馬たちは、ちょうど少女の身の丈ほどの高さの空中を走っていた。眼に見えるかたちをとった疾風のようであった。荒野の草は疾風にあおられて大きく波打ち、ざわざわと音を立てた。騎士たちはそのまま馬の頭の向きを変えることなく、まっすぐに少女のほうへ突進してきた。
 少女は逃げようとしなかった。それが幻影に過ぎないことを知ってはいたが、逃げ出さなかったのは決してそのせいではなかった。一つには、あまりに恐ろしくて身動きがとれなかったのであった。しかしまた一つには、疾駆するものどもの姿に激しく魅了され、それが幻であれ現実であれ、たとえわが身がどうなろうとも、そのまま陶然と凝視し続けていたいという欲望に駆られたからでもあったのだ。
 耳もとに荒々しい風の音を聞いた。馬どもの脚が彼女の頭の両側を一気に駆け抜けていった。彼女はすぐさま背後を振り返り、去り行くものどもの後姿を見た。すでに暗黒に閉ざされている東の地平の方へと彼らは遠ざかり、やがてその姿は見失われた。あとには底知れぬ闇だけが残った。
 少女はなおもその闇を見つめていた。風はいつしか止んでいた。東の地平は永遠そのもののように暗く、恐ろしいばかりの静寂に閉ざされていた。彼女の胸に、ある不思議な感情がわきおこってきた。いや、感情と言えるのかどうかも分からない、何かもっと根源的な情動……、焦燥と不安と、畏怖と、胸を焦がすような憧れとを含みつつ、しかもそれらの全てよりもさらに激しい、名状しがたい情動が、やがて彼女の魂を支配した。
 
 そして、それが彼女の思春期の始まりのときであった。