終景

 草むらに逃げ込んではみたが、見る間にすべての草の葉がしおれ、黄ばみ、からからに乾いていくのである。ひどい暑さだ。そして気味の悪い静けさであった。空を仰ぐと、夕暮れの色を帯びた青空の高みに、やはり暑さにやられたのだろう、細かな網の目のような亀裂が入り、乾いて少しずつめくれはじめ、ほどなくはがれ落ちてきそうな気配であった。そっと草むらから頭を出して、地上の様子をうかがうと、さきほどまで森のなかの緑の野原であったものが、いまや一面の枯れ野である。木々も黒く焼け焦げたようになってしまった。地平のあたりに見える太陽は、膿みただれた傷口のように赤い。そのまわりの空は、腫れて熱を持った皮膚の淡紅色である。なるほど、これは、世界の終わりである。
 人間の姿は見えない。もともと人の来ない場所ではある。皆がどうしているのか分からない。街のほうから火の手や煙が上がっている様子はない。が、不気味な静けさである。森よりも先に、悲鳴をあげる間もなく、やられてしまったのではないだろうか。そうでないとしても、この有様では、誰しも、私も、もう長くはない。鳥の声もしない。いつもならこのあたりには鳥たちの声が響きわたっているというのに。とはいえ、生きて動くものがまったく絶えてしまったというわけでもない。
 鶏の足を逆さに突き立てたようなもの、つまり、奇妙な茸のようにも見えるのだが、高さが二メートルほどある、照りのある飴色をしたそれらが、いくつも枯れ野の上を動きまわっている。群れをなすでもなく、それぞれ好き勝手に動いているようである。いかなる目的があって動いているのか分からない。目的などなさそうでもある。ともあれそれらは生きている。また枯れ野の上の空中を、大きな真っ黒な蝶が飛んでいる。片側の翅だけで私の手よりも大きいのだ。翅の厚みもあり、重たいのか、不器用に、ばたばたと飛んでいる。よく見ると、その蝶には翅のほかないのである。翅を支えるはずの胸部もなく、腹部も、頭部も何もない。ただ両の翅を根元の一点でつなげただけで、どうやって動いているのか見当もつかないが、どうにか動いてはいる。ほかにも、鶏の足のような茸のような生きものの頭部より少し低いあたりから、地表近くにかけて、野のあちこちに、小さな花火のような、直径二十センチほどの球状の火花が明滅している。あちこちといっても、すっかり散らばっているわけでもなく、いくつかずつ、蚊柱のような具合に縦に群がって、白や紫、金色などの光を放っている。まさに蚊柱のように、それらも生きているのでないかという気がしてきた。さらに遠く、ようやく視力の届くあたりの野のはずれに、どうしても無生物としかみえない、つるりと白い、ごく単純な円錐型をしている、高さ五十センチほどのものが、バッタのようにしきりに跳びはねている。白いうちにもわずかな薔薇色を感じられなくもないのが、それが生きものであることの証だろうかとも思ったが、どうやら夕日の色をぼんやりと映しているだけのことらしい。それにしても動きはたしかに生物の動きである。目の届かないところにはさらに多くの、おかしな連中がうごめいているのだろう。
 終わりつつある世界で、それまで世界が存在を許してこなかった生きものたち、生きものとはこうしたものであると世界が定めたところから外れたものたちが、ここぞとばかりに現れはじめたのかもしれない。それが、世界がすっかり終わってしまうまでのつかの間のことにすぎないのか、それとも、そののち始まる新しい世界で栄えるものこそが彼らなのだろうか。
 私は、なにも野のはずれにまで目をこらす必要はなかったのである。私が隠れている草むらの、目の前の枯れ葉の上に、同じ枯草色をしているので気付かなかったのだが、奇怪な芋虫が這っている。その芋虫には、頭部がない。両端いずれも尾部である。つまり口がないのだから、草の葉を食べようというわけでもなく、野原が枯れ野になっても差し支えないのかもしれない。それにしても、ゆっくりとではあるが動いているのは、餌を求めてのことでないなら、いったい何の目的があってのことなのだろう。ひとたび気がついてみれば、あちこちに芋虫がいる。枯れた葉の上、茎の上を、二つある尾部のいずれかを前にして、理由の知れない、あるいは理由などないのかもしれない、ゆるやかな移動を続けている。黒い翅しかない蝶の幼虫ではないかという気がした。どれほどいるのか数えてみようとしたが、見えるかぎりの草むらの奥のほうにまでうようよと這いまわっているので、うんざりしてやめた。草の根元へ視線をふと落とすと、土の上に転がっている小石のひとつ、丸く平らな灰色の石が、三センチほど動いては止まり、動いては止まりしている。軽くはじいたおはじきの動きに似ている。小さな生きものが下に隠れて、小石をかついで動いているのか、あるいは小石に擬態した生きものかもしれない。拾い上げてみたが、下に生きものなどおらず、小石は単なる石である。風化した砂岩である。ふたたび土の上に置くと、今度は強くはじかれたおはじきのように、すばやい動きで草むらの奥へと滑っていってしまった。私は嘆息し、空を仰いだ。暑い。さきほどよりさらに暑くなり、堪えがたくなってきた。あとどれほど意識が持つかしれない。
 怖くないわけではなかったが、仕方ないことだという気がした。世界はすでに一変し、私が慣れ親しんできたあの世界ではなくなってしまった。今までの秩序は失われ、あるいは私には理解できない秩序に支配されることになった世界で、たとえ生きていけるとしても、それを生と呼べるだろうか。死の苦しみが長引きさえしなければと思う。早く終わりになればよい。
 天の亀裂はその網目をさらに細かくしつついっそう広がり、ついに剥落しはじめた。小さなかけらが少しずつ降ってくる。いくつかは私のまわりの野原にも落ちて、彼岸花のような火花を散らした。血赤色に光るその花は、まわりの枯れ草をじりじりと焼きはじめた。かげろうが立ち、その向こうを、膿を持った傷のような太陽がゆっくりと沈んでゆく。
 死後の私がどうなるのかは、私の死後に世界がどうなるのかと同じほどに分からないが、おそらくはただ消えてしまうのだろうけれども、もしも意識が残るのであれば、世界がどうなるかなど見届けたいとも思わない。知ったことではないのである。すでに滅びてしまった懐かしい世界、気に入らぬことも多々ありはしたが、今となってはひたすらに愛おしい、あの美しい世界のことばかりを、いつまでも夢に見ながら過ごそうと思う。