旧交

 私が私に助けを求める。あれが不安だ、これが怖いと泣き騒ぎ、痩せた指を私に食い込ますようにしがみついてくる。いつものことだ。あの不安、この怖れを、ひとつひとつ取り除いてやっても、必ず、すぐさま新しいのを見つけてきては騒ぎ出す。きりがないのだ。あげくの果てには、とうに取りのけてやったはずの不安や怖れを、どこかから、わざわざ拾い上げてきて泣きわめく。
 私は私を振りほどき、私の部屋に置き去りにして、走って逃げた。せいせいした。私を呼び止めようとする私の声が、私の背後にずいぶん長く聞こえはしたが、悪いことをしたとは思わない。結局のところお互いにとり良いことをしたのでないか。
 ようやく自由の身になった私は、晴れ晴れとして、美しい船で旅に出た。風は追い風、空も海も青く輝いている。世界は広く、生は快い!
 甲板で快い日ざしを浴びながら、私は、捨ててきた私のことを考える。あの不安、あの怖れは、対象こそころころと変わるものの、中身は、いつだって同じものだった。とるにたらない思い過ごし、思い込みからはじまって、視野狭窄に陥り、他の考えをとることができず、がんじがらめになってしまうのだ。はじまりの、とるにたらなさに、どうして気付かないのだろう。まるで生命が脅かされてでもいるような、いや本当に、死ぬのでないかと怯えているような、あの異様な焦燥感、切迫感は、何なのだろう。……いや、じつは、気付きたくないだけなのではないか。自分で気付いて、自分の力で何とかするかわりに、誰かに何とかしてほしいのではないか。つまり、あれは、甘えではないのだろうか。そう考えて、私は、やはり私を置き去りにしてきたのは正しい判断だったのだと思った。ひとりきりの部屋で頭を冷やすがいいのだ。
 そもそも、不安も怖れもまるで感じない者などいるだろうか。むしろ、不安や怖れを感じることこそが、生きることではないのか。感じつつも、立ち向かっていくのだ。誰だってそうだ。おそらく、立ち向かうほどに不安や怖れはやわらいでゆき、逃げるほどに大きくなってゆく。つまり、あんなにも泣きわめくという、それ自体が、立ち向かう努力をしていないことの証拠なのだ。だから駄目なのだ。
 要するに、いちじるしく自己中心的なのだ。おのれ可愛さに目がくらんでいるのだ。人格的に未成熟なのだ。子供の駄々だ。それにひきかえこの私は、なかなかの大人であると、そう考えてみると嬉しくなった。
 そして次第に、私は私のことを忘れていった。なにしろ、空も海も青くまばゆい。古くせせこましい部屋に見捨てられた私のことなど、考えても退屈なばかりだ。世界は広い。ついに私は、私を忘れ果てた。追い風は続き、天気はよろしく、私の美しい船は、世界一周でもしたのではあるまいか。あるとき、船は見覚えのある港についた。それは私がこの旅をはじめた港であった。さすがに自分の部屋のことを思い出し、やや気にかからないでもなかった。あの部屋で、私は元気にやっているだろうか。少しは頭を冷やして、まともな大人になっただろうか。
 私は陸に上がり、昔に変わらぬ街路を歩いて、やがて懐かしい建物についた。扉を叩いたが、返事はない。留守かもしれない。開けてみると、私がこちらを向いていた。哀訴の表情で、何か懸命に叫んでいたらしい口の開けかたをして、扉のほうへ手をのばし、出てゆく者を引き止めようとする姿勢のまま、床に倒れ、ミイラ化して死んでいた。