愚者

 地平の果てまで赤い。草木も家も何もない。ただ赤錆色の礫に覆われ、平坦に広がっているばかりの砂漠である。誰もいない。何の物音もしない。空は黄色い。日ざしは強い。日ざしに褪せて黄ばんだような空の色だ。こんな所にかつて自分が住んでいたと思うと、おかしな気がする。しかし証拠に、赤い礫になかば埋もれて、古いカレンダーの切れ端、壊れた時計の破片などが散らばっている。生前の私が使っていたものだ。その頃は仲間たちもいて、いや、そればかりか、このあたりには結構な数の人々が住んでいた。少なからぬ建物が軒を連ね、自動車が行きかい、家々の庭には花が咲いていた。特に立派な街だったというわけでもない。どこにでもある、ごく普通の街並みであった。彼らがどこへ行ったのか、街がどうなったのか分からない。私が死ぬとき、それらはまだそのままにあった。死はあっけないものだった。あたかも真夏のほんの二、三日の日照りのために、萎れ、倒れてゆく草のようだった。私がいなくなっても、街と人々とは変わらずありつづけるものと思っていたが、それらもまた、あっけないものだったようだ。土の色にまぎれて見分かちがたいが、わずかに、赤く錆びた杭のようなものが数本、乱暴に突き刺したように立っているのは、建物の鉄骨の名残りである。私はそれらを、悲しむわけではない。ぼんやりと、からっぽに近い心で、ただ眺めている。今ではもう、あるともないともつかぬ身になってしまった私には、心というほどの心もない。頭骨の眼窩のようなうつろさ、しかし不幸ではない。
 地平のかなた、黄色い空のひとつの方角、それが四方位のいずれにあたるのか知れないが、大地と接するあたりの空だけが、おだやかに白い。焼け跡のような大地と、熱病に罹ったような空とのあいだで、そのあたりだけが何がなし平和に見える。かつて私が夢見、たまさかに味わいもした、幸福というものの記憶が、実感は伴わないもののはるかに思い出される。そちらへ行こうなどという情熱はもはやありはしない。しかし、ふと思う。かつて私の内にあり、死ののちもなお自分の死に気付かない愚かな私の部分が、いつの間にかそちらへと無邪気にも駆け去っていったのではないかと。だからこそ残されたものはこのようにうつろなのではないか。いや、愚かな私は、実際、不死であるのかもしれない。そもそも死んでいないのであれば、死に気付こうはずもない。かつての幸福、夢、希望、力、心の内にあかあかと燃えていたすべてのものが、去っていった者のもとにあるような気がする。