友誼

 森の中の小さな明るい野原、そこに私は埋められています。私は殺されました。どのようにしてかは、こまごまとは申しませんが、ただ、愉しみのために殺されたとだけ申し上げておきましょう。私のような娘たちは、ほかに、この森に幾人も埋まっております。誰にも知られず、懐かしい人々の誰にも会えぬままに、私どもの肉体は森の下草の陰に朽ち果てました。はるか昔の娘たちもおります、何十年、百年、あるいはもっと昔からここにおられる方々が。私からしますと、祖母、曾祖母、さらに遡る世代にあたる方々ですが、もしも彼女たちの姿を、木立ちの中を漂う淡い影として目にすることのできる方が、みなさまのうちにいらっしゃいますなら、きっと若い女の姿ばかりを御覧になることでしょう。私どもには、永遠に、時が止まってしまったのですから。
 さらにまた、哀れな死に方をした幼い子供たち、若い男の方々もおります。もっと年かさの方々も、男女問わず、無惨な屍として埋まっております。森のあちらこちらに、骨となって転がり、小川の岸の白い石にまぎれ、骨片となって野原に散らばっております。殺された方々の多くは、やはり、結局のところ誰かの愉しみのために殺されたのです。何かを奪うために、あるいは何かを得るのに邪魔で、あるいは何かを得られなかった腹いせに、つまりは誰かの満足のために彼らは犠牲になったのです。恐ろしい話とお思いでしょうか。しかし、みなさまの生きておられる世の中も、現に、たいした違いはないということに、お気付きでしょうか。
 人々が、人々を踏みつけて歩いています。より高いところに自分を置くために。より低いところへ沈まぬように。あるいは既に踏みつけにされていることの腹いせに、他の誰かを踏みつけます。そのようにすると愉しく感じるようです、暗い愉しみですが。常に、自分は他の誰かよりは上にあると、そう思っていなければ生きていけない人々の、何と多いことでしょう。いや、そうでない人など、はたしていらっしゃるのでしょうか。互いが互いを踏みつけにする、その複雑な踏みつけ合いの関係それ自体によって、世の中というものが形作られているようにさえ思えるのです。誰もが誰かの犠牲の上に暮らしている。みずからの足が血に濡れていることに、多くの方々が気付いておられるならば、まだしもなのですが……。そうしたことのひとつのあらわれとして、私どもの死がありました。ですから、何も特別なことではない。何も珍しいことではないのです。みなさまの日々の足もとと、私を埋めているこの野原とは一続きです。
 そのような世の中で生き抜くことに疲れ、また自分の足が常に血に濡れていることの自覚にも疲れ果てて、しばし街を離れ、ひとり山野をさまよい歩く方々が、稀にいらっしゃることを存じております。そうした方々には、この森の景色がこのうえもない慰めとなるようです。そうした孤独な人々の魂を、森は決して傷つけません。森は、愉しみのためだけに殺すということを、決していたしませんから。私どももかつてこの景色の中に、優しく受け入れられました。朽ちた肉体は、木々に、草に、数知れぬ生きものたちに摂り込まれ、彼らを養い、豊かにしました。そして私どものほうは、彼らから静かな慰め、深い安らぎを受け取りました。鳥たちの歌、せせらぎの音、波の輝き、魚たちのうろこの煌めき、蝶々の翅の彩り、風の声、日の光と月の光、そういったものを喜びとして日々を過ごしています。それらはまったく無償で、限りなく豊かに与えられ、心を満たしてくれるものです。ですから、この地をさまよう人々が安らぎを得られるというのも、もっともなことです。世の中にいられなくなった者たちとして、その方々と私どもとは、いわばお友だちのようなものなのですから。