(無題)

 魂の地上的属性と天上的属性について。


 夜のバス停で、私は帰りのバスを待っていた。その晩、夜空はいつになく暗く感じられた。月も星も見えなかった。決して街明かりに乏しい場所ではなかったのだが、それら一見したところ華やいだまぶしさも、いくらか視線を上の方へ向けるや、すべて暗黒の夜空に飲み込まれて消えてしまうように感じられた。道路をしげく行き来する自動車や、高架上を通過していく列車のもたらす喧噪とは無関係に、空は深く、このうえもなく深く沈黙していた。その闇の内部には、いかなる形あるものも存在せず、いかなる音も、時間さえも存在しないのではないか——、そこには永遠の静寂に閉ざされた闇だけがあるのではないか。私にはそんな気がし、そして、そうした永遠の闇を夢想することは、私に不思議な心の安らぎをもたらした。もしかすると私は、そうした闇から生まれ、その闇を故郷として、やがては闇のなかの永遠の安息へと回帰してゆく魂なのではあるまいか。私という存在、私という意識は、いつか天上の闇の深みに沈み、溶け、輪郭を失って、闇そのものと分かち得なくなるだろう。
 ならば夜空の暗さは、私自身の魂と同じ素材からできている……。
 私は心につぶやいていた、
「なんという暗さだろう!」
そして、続けてごく自然に、
「この暗さが、僕だ」
と、そう胸のなかでつぶやいていたのだ。生物学的には明らかに女性のものである胸のなかで。——私はみずからに驚き、そして、とっさに周囲を見まわした、同じバス停でバスを待っている見知らぬ人々の顔を。彼らの耳に私の内心の声が漏れ聞こえるはずもないのに、私は、世の中では女性の用いるものでないとされているその一人称を、われ知らず使ってしまったことを恥じらい、あまつさえ他人に気取られはしなかったかと怖れていた。別にこれという罪をおかしたわけでもない、ただ人称の慣用に背いたという些細なことに過ぎないのに。
 自分の本質を、あたかも夜空の闇のごとき何かであると感じている者にとっては、性別であれ何であれ、およそ世の中において個人を規定するものとされている諸特性の大方が、自分とは疎遠な、無関係なものであるように感じられる。そして私にとっては、おのれを指す人称が男性のものであろうと女性のものであろうと、それは基本的にはどちらでもいいことなのだ。夜空を見上げていて「僕」とつぶやいた、その時にはたまたま、いささか悲壮でヒロイックな気分があったために、自然に男性的な人称を選んでいたのである。それだけのことなのだ。また別の時には私は自然に、女性一人称を使って心につぶやいているだろうが、それも私が身体的に女性であるという理由で使った人称であるとは限らない。
 それは確かに、私個人にとっては自然なことなのだ。だが、こうした私が世間一般の人々の群れのなかで生きなければならないという現実を、一体どうしたものだろう。
 自分は何も誤ったことをしたわけではない、自分は異常ではないと、みずからを説得してみても、どこかしら世間のなかで生きることに違和感を覚えている自分というものを、完全に消し去ることは難しい。いっときは消し去ったつもりになっても、また日々の暮らしのなかで刻々に、心の底に不安は深く堆積してゆく。そして、そうした不断の怖れを、すっかりとなだめることなど私にはできそうにない。
 そしてまた、それゆえにこそ、夜の闇への憧れはさらにつのりゆくだろう。自分という存在が永遠の闇に溶け去ることを、私はさらに強く希求するだろう。逃避的ではある。だが、しかたのないことだ。それが私の心にとり慰めとなるのならば、それはそれで私が生きてゆくために必要なことでもある。


 それは僕にとり必要なことなのだ。