病院

 私は幼い子供だった。近くには、まだ若かった私の母と、母の幼なじみの女性との姿があった。そこは大きな病院の、総合受付の前の待合室であった。母の女友だちは白衣を身にまとっていた。彼女はこの病院に勤務している薬剤師なのだったが、たまたま訪れた私の母といっしょに待合室の茶色い長椅子に腰掛け、しばらくのあいだ仕事をなまけて世間話に興じていたもののようだ。私はといえば長椅子には座らずに、幼い子供らしい落ち着きのなさで、くすんだ深緑色の床の上をうろうろと歩きまわっていた。まだ背丈はごく小さくて、母の組んだ脚の膝が、私の頭と同じくらいの高さに見えた。受付カウンターのガラスの仕切りには「薬剤交付窓口」の黒い大きな文字が見えたように思う。もっとも、そんな幼い時分に漢字が正確に読めたかどうか疑わしく、記憶違いか、あるいはもっと後になってからの記憶が混ざり込んでいるのかも知れない。しかし、ずっと幼い頃から長じてのちまで、およそ何をさせても駄目な私であったにもかかわらず、どういうわけか文字を読みはじめたのは他の子供よりずっと早かったというから、もしかしたら、たとえば「薬」の文字くらいは判読し、それなりに理解できていたのかも分からない。ならば、おそらくそのときは、私の風邪を診てもらいに病院を訪れたのではなかっただろうか。私は風邪ばかりひいている子供だった。小児科の先生に診てもらって、帰りにはかならず赤と黄色との二壜のシロップをもらうのである。先生や、母の友だちのその薬剤師の女性は、イチゴとバナナの味がしておいしいよ、といつも言うのだけれども、私にはそれがおいしく感じられたためしがなかった。中途半端に甘みの混ぜられた苦みと、鼻から頭に抜けるような薬剤のにおい。大人になった今でさえも、その苦みとにおいとの記憶がかすかに、舌と鼻の奥のどこかに残っているような気がする。そしてそのときも、薬剤交付窓口で大嫌いなシロップをもらって、母と一緒に家に帰ったのだったろう。
 時刻は昼間だったはずだが、窓の外には日の光が輝いていたにもかかわわらず、その待合室は薄暗く、あたかも空間の全体がわびしい青色に染まっているかのようであった。待合室から見える病院の玄関や、奥の病棟へ続く廊下もまた、やはり薄明のなかにあったように覚えている。いや、それとも単に、それがずっと幼い頃の記憶であるために、すべてがぼんやりとした忘却のとばりに半ば覆われ、不鮮明な映像として脳裡に残されているというだけのことなのかもしれない。だが、その時分の私のような、まだ現実と夢との境も定かではない幼い子供の眼に映るものは、もともとそんなふうに模糊とした霧のなかのような、そして理由もなく寂しげな光景であるのかも分からない。
 母とその友だちは、いつまでも世間話を続けて飽きる様子もなかった。次第に退屈になってきた私は、彼女らの目をぬすんで待合室の横の廊下に出た。そこもまたくすんだ深緑色の床で、あらゆるものが青みをおびた淡い霧のなかにあった。廊下のすみには、薄汚れた黒い衣をまとった病気の老人が、まるで人間ではなく襤褸布を積み上げた山ででもあるかのように、身じろぎもせず、ほとんど息もしていないような様子でうずくまっていた。そばで眺めている私のほうへまなざしを返すこともなく、そもそも気付いてさえいないようだった。私はさらに廊下を歩いていった。ときおり白衣の医師や看護婦たちが行き来するのに出会ったが、みなひどく忙しそうで、小さな子供に目を止める者は誰もなく、誰ひとり「小さな子が勝手に歩きまわってはいけません」などと注意したりはしなかった。それで私はどこまでも廊下を進んでゆき、曲り角をまがり、行き当たりばったりに分かれ道を選んだ。次第に、不思議な好奇心が私を駆り立てはじめていた。そこはかとない不安をまじえた好奇心であった。何かは分からないが、ある恐ろしいもの、かつ非常に神秘的なものが、巨大な病院の迷路のような廊下の果てのどこかに隠されているような予感を漠然とおぼえていた。私はその頃すでに母から、その病院こそは私自身が生まれた場所であるということを教えられていた。そのせいでもあっただろうか。あたかも生まれる前の自分の霊がかつてそこにいた、そしておそらくは、いつか遠い日にそこへ帰ってゆくのであろう昏い世界が、廊下の果てに開けているかのような幻想をぼんやりと抱き、その幻想に畏れと憧れとを感じていた。
 歩いてゆくにつれ、次第に周囲には人影がなくなっていった。ひどく静かになった。窓の外からの日の光が夕刻の色を帯びてきたのだろうか、廊下の空気はいくぶん黄色みがかってきた。傷口から出て固まった、わずかに血のまじった金色をした膿のような?――まぶたを閉ざして太陽のほうへ顔を向けたときの、薄い肉と血管とを透かした、あの明るいあたたかな光のような?――黄ばんだ明るさだった。行く手は突き当たりになり、右のほうへだけ、今まで歩いてきたのよりも細くて暗い廊下が続いていた。曲り角の向こうから急に、一人の看護婦が車輪つきの寝台を押しながら勢いよく走り出てきた。その寝台には患者は乗っておらず、かわりに、ちょうど横たわった人間が楽に納まるほどの大きさの、黒塗りの箱が載せられていた。私は怖くなった。まだ生も死もはっきりとは弁えない幼い子供ではあったが、その黒い箱を見て即座に直覚した――、死体だ。死体の入った棺だ。廊下の曲り角の向こうの暗がりのなかにあるのは霊安室だ――まだそういう言葉そのものは知らなかったけれども。私は逃げ出そうとした。しかし看護婦は寝台を押しながら、おそろしい早さでこちらへ突進してきた。気の触れた女だったのではあるまいか。女の顔は大きな棺の陰になって見えなかったが、のっぺらぼうか、あるいはマネキン人形のように表情のない白い顔を私は瞬時に想像した。恐怖のために足がもつれ、私は床に倒れた。看護婦は構わず、そのまま私の上を寝台を押しながら走った。しかし幸いなことに、まだほんとうに小さかった私の体はちょうど寝台をくぐるかたちになり、寝台の車輪にひかれずにすんだ。狂った女の足が疾風のようにかたわらを過ぎていった。ガラガラと車輪の音をたてながら、狂気と死とは廊下の彼方へ走り去っていった。車輪の音が聞こえなくなると、私は立ち上がった。そして棺の出た曲がり角のほうへ歩み寄り、その向こうの薄闇をそっとのぞいてみた。
 真っ暗な廊下の彼方の突き当たりに一つだけ窓があり、白い四角い小さな光源となって、闇をおぼろに照らしていた。床には、あたかもさきほどの棺が駆け抜けていった痕跡のようにして、遠くからこちらのほうにまで何か白いものが点在していた。それらのなかの、私の足もと近くにあるいくつかに目をやると、それはバスケットボールほどの大きさの、水芭蕉に似た白い大きな仏焔苞状の花びらを床からじかに生やしている、不思議な植物であった。花びらのなかには、花穂のかわりに、林檎ほどの大きさの赤ん坊の顔が生えていた。顔はあどけなく愛らしく、虚空に向かって声を立てずににこにこと笑っていた。闇と静寂と、消毒剤の冷たく透明な匂いのなかで、どの花のなかの赤ん坊も声もなく微笑んでいた。私は、それが絵本などで見る天使の顔に似ていると思った。そして何とはなしにその子らに親近感を覚えたが、それはもしかしたら、自分もつい先ごろまで赤ん坊で、そんなふうに無心な笑顔を浮かべていたのであるという記憶が、かすかに、自分でも自覚されないくらいにぼんやりと脳裡に残っていたせいだったのかもしれない。……幼い私は、幼い思考と直覚の力をもって、その場所こそが、かつて私が生まれる前にいた場所であるとともに、やがて大人になり老人になった果てに、いつの日にか私の霊がふたたび安らぎを得る場所、世界の始まりと終わりの場所なのだと思っていた。


 病院で生まれ病院で死を迎える現代の人々の一生を、古き良き時代の、共同体のぬくもりと宗教的な厳粛な雰囲気のなかで生まれ死んだ人々に比べて、不幸であると、あるいは誤った人生のありかたであるとして嘆く人々がいる。彼らはしばしば激しい口調で、病院で迎える死というものの酷さ惨めさを暴き立て、人間的な、尊厳ある死をわれわれに返せと訴える。しかし私個人はといえば、ときおり病院を訪れるたびに、この巨大で冷ややかな建物のなかのどこかに、生と死との根源の秘密が隠されている神秘の場所があるような気がしてならないのだ。もとより、それは無邪気で愚かな子供の夢のまなざしにしか捉ええない空間であるにしても。