河畔

 不思議なものを見た。
 明るい林のなかに、あまり幅の広くない川が真夏の日の光を浴びながら流れていて、その岸辺の樹から太い枝が一本、川のうえへ大きく張り出し、枝先に向かって次第に垂れ下がって、一番末のほうはほとんど水面に接しかけていた。濃緑色の葉になかば覆い隠されている大枝の黒い樹皮には、淡い青緑の地衣類が点々と付着し、金茶色の蔓草が網のようにからみついていた。不思議というのは、その黒い樹皮が大枝の先のほうへ近付くにつれ明るい象牙色に、否、人間のみずみずしい肌の色に変化してゆき、一体その変化がどのあたりから始まるのかは木の葉に隠されていて見定め難いのだが、とにかく枝の尖端は見紛うことなき人間の、それも美しい少年のかたちへと変じていたのである。身体の腰より下の部分は緑の葉陰で樹木と同化しており、上半身はまったくの素裸であった。首を水面のほうへだらりと垂らし、両腕を力なく下げて、白い指先はほとんどさざ波に触れそうなあたりにあった。長い黄金色の髪の先は水に浸って、流れに弄ばれてゆらゆらと揺れていた。
 私はその対岸に立って、少年の姿に目を奪われていたのである。心を奪われていたというべきか。彼は体躯の前面を私のほうへ向けており、大理石を刻んだように真っ白な腹、胸、腋下のくぼみから青白く輝く腕、掌から華奢な指への流れ、おそろしく端正な、美しい娘に似てさらに凛々しく浄らかな、天使のような顔立ちといったものがすべて、惜しげもなく、私の視線のまえに曝されていたのである。これほど美しい少年を私は見たことがなかった。しかもまたこれほど奇怪なものを見たこともなかった。非常に美しくはあったが、その顔の表情は死んでいた。肉体の生命こそ宿ってはいたが、それはただ樹幹から枝伝いに運ばれてくる養分によって維持されているだけのことであり、精神においては明らかに死んでいた。ちょうど彼のしなやかな腕が、蔓草のしなやかさに似て、意志の力を持たずにだらりと垂れ下がっているばかりであるように、大きな澄んだ目は虚空へ向けて開かれたまま、何ひとつ見てはいないのだった。まばたきの愛らしさにもかかわらず、その青紫の瞳には、いかなる感情の影も思考の閃きも兆すことがなかった。紅い唇は、言葉を発するためでもなければ口づけのためにでもなく、ただかすかな呼吸のためだけに、なかば開いたままになっていた。
 いったいこれはどういうことか。これは特異な植物なのか、それとも怪物の一種なのか。樹木から生まれかけている妖精の類であろうか、それとも、もとは人間であったものが、樹木に捕食され同化しつつある姿なのか。私は胸に哀れみのような、あるいは別の種類の感情だったのかもしれないが、切ない情緒が湧き起こってくるのをおぼえ、たまらなくなって対岸のその少年に声をかけてみた。
「もうし?」
何事も起こらなかった。私はさらに大きな声で、
「もうし、もし、あなた?」
すると少年の瞳がわずかに動いた。魂に生命の小さな火がともった。ちらと、私のほうを見た。かすかな驚きの表情が浮かんでいるようだった。どこか痛々しいものを感じさせるほど無垢な、澄んだ瞳であった。唇が、もの問いたげに震えたように見えた。それらはみな一瞬のことであった。次の瞬間、少年の身体は枝からするりと抜け、すらりとした両の脚、つややかな腰、まだ成熟しきらない性器といったものが見えたとも見えぬともわかぬ間に、銀のしぶきを上げて水に落ちてしまった。そして、それほど深い川とはどうしても思えなかったのだが、そのまま彼の姿は水中に消えて見えなくなってしまったのだ。
 ぽかんとしていると、対岸のその樹の陰から少女が一人ひらりと現れて、私のほうをじっと見た。赤いワンピースを着、明るい栗色の髪にピンク色のリボンを巻いて、とても可愛らしいのだが、ひどく意地悪そうな笑みを浮かべていた。彼女は川ごしに、嘲るようにして私に言った。
「お姉さん。思いを懸けたね。女が思いを懸ければ、この樹の花はすぐさま散ってしまうのに」
「花?!」
私はぎょっとしたが、少女は平然たる様子で、あいかわらず意地悪く笑いながら視線を川面に移し、
「可哀相な花、もう水に溶けてしまった、あとかたもなく!」
きっぱりとそう言い切った。それで私はひどく気が動転して、どうやら自分はあの少年に、あるいはあの花に対してきわめて酷いことをしてしまったらしい、という以外には何が何やらさっぱり分からなくなってしまった。少女は妙に得意そうな顔つきをしていた。それが何故であったのかは私にはよく分からない。茫然として、しばらくのあいだ私はただ水のおもてばかりを眺めていた。なすすべもなく、ただ胸に痛みを感じていた。さざ波が真夏の日の光を浴びてきらきらと輝き、川はあたかも何事もなかったように静かに流れ続け、そして、そのまま何事も起こりはしなかった。