理科室

 窓ガラス越しにさしこみ、リノリウムの床にはねかえり、室内のあらゆる器物に冷たい光沢をあたえる、五月の午後の太陽。今年この小学校に入学したばかりの男の子が、誰もいない理科室の、まばゆい光のなかに一人で立っていた。校舎のはずれ、四階の片隅の第三理科室。上の学年の子供たちはまだ授業中で、校舎の中は静かだった。それにこの棟のこの階には、あまり使われることのない部屋が並んでいるので、よけいに静かなのだ。第二集会室、視聴覚準備室、資料室、暗室、等々。
 男の子は、目をじっと見開いてそこに立っていたが、何を見ているというわけでもなかった。そもそもこの部屋にあるものの多くは、幼い子供にとって、何のために存在しているのやらさっぱり分からないものばかりなのだ。途方に暮れて、あたり一面に広がる理解不能の空間を、彼はただ茫然と眺めている。この部屋だけではない。小学校なるものの全体が、分からないことばかりだ。教室と呼ばれる空間の区切り、授業と呼ばれる時間の区切り、そして時間的および空間的に束縛されつつ、さらに互いに執拗に干渉しあう同級生と呼ばれる集団。
 だが、この部屋には静けさがあり、がらんとした広がりがあり、他人の呼気を含まない空気があった。それが子供を自然と引き寄せた。帰宅しても、夜半までは誰もいない。ずっと留守番だ。ならばしばらくここにいても同じことである……。
 それにしても、この子供の目の、なんという美しさであろう!
 大きな目。澄みきった黒い瞳。いくぶん神経過敏そうではあるが、しかし非常に愛らしい。その瞳には、深い当惑と幼い絶望とがありありと表れているが、それについて彼当人はあきらかに、まるで自覚できていない。愚かな無心さ。捨てられた仔猫のまなざし。誤ってこの世界に迷い込んだ、無智にして無垢なる幼い天使のまなざし。哀しき放心。凍てついた瞳、その透きとおった氷の美しさ。
 色白の、細い体つきをした男の子であった。やや虚弱体質ぎみかもしれない。白い顔のなかで、漆黒の瞳がことに際立ってみえた。やがてそのきれいな目で、室内のさまざまなものを見るともなしに見まわし、ゆっくり、おずおずとした足どりで歩きはじめた。
 整然と並んだ白い大きな机。いくつもある蛇口、鋭く光る水道管の彎曲部。うっすらと消え残りのある黒板。窓の端に寄せられた、黒い表地に赤い裏地の厚手のカーテン。教卓の隅の小さなガスバーナー。壁の高いところに貼られた学習用ポスター。うつろに響く彼自身の足音。壁のやや低いところに貼られた蝶のポスター、……ポスター?
 くすんだ空色の地に、二十種ほどの大型の蝶が整然と、翅を開いた格好で並んでいるが、よく見るとそれらの翅はすべて本物だ。翅を空色の台紙に糊付けして、胴体は紙製のあきらかな偽物である。剥落を防ぐために全体を透明なビニールで覆ってある。上部には「日本産鱗翅類(蝶目)標本」という文字が、古めかしい感じのする明朝体で刷られている。翅も台紙もかなり退色している。ずいぶん昔からこの場所に貼られているもののようだ。男の子はしばらくのあいだ、それらの蝶の死骸を不安そうに眺めていた。
 陽光のさしこむ窓の向かい側には、廊下に出るドア、およびガラス張りの大きな展示棚がある。棚には数多くの生物学標本が並べられている。棚の天板よりさらに上には、天井とのあいだに若干の空間があり、そこには整理用らしきダンボール箱が数個と、鳥類の剥製がいくつか置かれている。子供は棚に歩み寄って陳列物を眺めた。大きなガラスの瓶が並んでいる。瓶はほのかに黄色みをおびた、あるいは赤みをおびた液体で満たされていて、そこに生き物の死骸が浸されている。ねずみ、ふな、腹を裂いて臓器を露出させた蛙、同じく裂かれた蛇、また何やらよく分からないぐにゃぐにゃした白っぽいもの。骨の標本もある。にわとりの骨格、うさぎの骨格、牛の頭骨など、いずれもきれいに漂白されているが、なかに一つだけ、うっすら茶色みをおびた頭骨がある。どうも人間の頭蓋骨のようにみえるが、よく似た別の生き物の骨か、あるいは人骨のリアルな模型なのだろうか。ほかには三葉虫や巻貝やサメの歯などの化石、人間の心臓のプラスチック模型、および眼球と眼筋の模型など。
 男の子は真っ青な顔をして、しかも陳列物のひとつひとつを丁寧に凝視していた。目を離そうにも離せないらしい様子でもあった。恐怖心が、美しい瞳にさらに冴々とした光を与えていた。まなざしはさらに棚の上の剥製へ向けられた。ふくろうの剥製、きつつきの剥製、はやぶさの剥製。いずれもかなり古いものらしく、色あせ、ほこりをかぶっている。それらの眼窩にはビー玉に似たガラス玉がはめこまれている。表情のない、ただ単に丸いだけの目である。子供は慄然とした。いわば「死そのもの」のまなざしに出会ったような気がしたのだ。顔をそむけようとして、できなかった。ガラスの眼球に呪縛されたようだった。
 死のまなざしが、彼をとらえて離さないのだ。このままでは死にのみこまれてしまう、という不安に子供はとりつかれた。ぼくは殺される。逃げようとしたが、足がすくんで動かなかった。剥製たちの視線は、たしかに彼にそそがれていた。いかなる欲望も意志も有さない、まったく空虚な視線、しかもそこにはなお一種の悪意に類したもの、それも底なしの悪意に類したものがあった。剥製たちの翼が、突然、力強く広がった。そして一斉に、この哀れな男の子に向かって襲いかかった。おそろしい羽音。男の子は悲鳴をあげた。死の翼が彼の小さな体を覆った。鋭いくちばしと歯が、無言の憎悪に満ちて、白く柔らかな皮膚のいたるところを食い破った。
 
 偶然、この棟の四階の廊下を通りかかった理科の先生が、ただならぬ物音と子供の悲鳴を聞いた、あるいは、聞いたような気がした。最初はたしかに聞こえたはずなのに、次の瞬間には、空耳でしかなかったように感じられたのだ。それでも念のためにと、それらが聞こえてきた気がする第三理科室のドアを開けてみた。
 室内には五月の午後の陽光が満ちあふれ、誰もいなかった。すべての備品がいつもと変わらない位置にあり、荒らされた形跡はなかった。ただ陳列棚のそばの壁に小さなしみがあって、以前にはなかったはずなのだが、それが血痕のように見えなくもなかった。しかしすでに乾いて茶色みをおびており、新しい血の色には見えなかった。さらに室内を見まわすと、窓からの光を受けて輝いているリノリウムの床に、きれいな黒いビー玉が二つ落ちていた。生徒の落とし物だと先生は思った。それらは冷たく澄み、氷のようにきらめき、どこかしら哀しげな子供の瞳を連想させる美しさで、透きとおった小さな影を床の上に投げていた。