折り鶴

 山の奥深くに寂れはてた寺があり、そして他に何もなかった。寺にいたる唯一の道すらも草に覆われて消えていた。ところどころに剥落のある白壁のまぎわまで、森の木々が迫ってきていた。壁といわず屋根といわず、いたるところに蔦が這いのぼっていた。かつてはこのあたりにも人家があって集落をなしていたのだが、今は誰も残っていない。彼らの生活の跡は繁茂する緑の海に沈んだ。ただ寺だけがなかば朽ちながらこうして残された―― 世の中のすべてから見捨てられて。
 小さな寺である。本堂の雨戸が少し開いたままになっていて、古びた曇りガラスの格子窓を透かして外光がわずかにさし込んでいた。とはいえ北向きの窓の、しかも木々の枝越しの光である。
 誰もいないはずの屋内に、人影が二つ、ほのかな光の中にあった。いつからそこにいるのか、どこから、なぜ来たのか分からない。一人は若い女、というよりもまだ顔立ちにあどけなさの残る少女であった。長めのおかっぱ髪はつややかに黒く、瞳はさらに黒く美しく、頬は真珠のように白かった。病気であるらしかった。華奢な体に浴衣をまとって布団に横になっていた。もう一人は年かさの女で、白い帷子を着て少女の寝床のかたわらに端座していた。その顔のあたりには光がささないために人相は判然とせず、ただ白い着物姿だけが薄闇の中におぼろに浮かんでいた。ごく静かな女で、そこに人が存在するという気配をすらほとんど感じさせず、堂内の埃っぽくよどんだ空気のなかに声もなく溶け失せてしまいそうだった。彼女の背後に仏壇があり、黄金の天蓋や幢幡によって荘厳され、そこに今なお本尊が安置されているらしかった。如来の像とおぼしきものが暗闇の奥からかすかな光を放っていたのである。かつて人々がこの地を捨て去ったとき、それまでの尊崇の対象をここに置き去りにしていったのか、あるいは、じつは壇上には何もなく、ただ金色の微光をおびた幻がそこに漂っていただけのことなのかもしれない。天井は蓮華や菩薩や飛天の姿があまり巧みではない筆で描かれた格天井であった。少女の目は熱のためにうるみ、ときに苦しげでもあれば、ときに夢見る者のまなざしのように恍惚としてもいた。
 
 いくらか調子の良いとき、といっても立ち上がって歩くまでに至ることは決してなかったのだが、少女は布団の上に身を起こしていることもあった。そういうときには付き添いの女が彼女の肩に赤い羽織をかけてやるのだった。花々の絵が描き込まれ、さらに金糸銀糸の刺繍がほどこされた、華やかな打掛のような羽織であった。それを着ると彼女は、遠い昔の高貴な姫君のようにみえた。その姿で、無心に、ごく幸福そうに、白い小さな和紙で鶴を折ることがよくあった。それが病床のただ一つの手なぐさみであった。鶴を折りながら彼女は、
 ――きっと治りますわよね。
そうかたわらの女に声をかけもした。心からそのことを信じきっている、可憐な、無垢の微笑を浮かべながら。女は闇の中で頷いた。
 折りあがった鶴は、枕辺の、藤色に染められた友禅紙の手箱に納められた。さらに、寝床のそばの壁際にはすでに鶴で一杯になった手箱がいくつも積み重ねられていた。それぞれに朱鷺色や鴬色、露草色や茜色などと優美な色に染めあげられた紙の箱である。それらが少女の宝物であった。綺麗なものを集めることは世の娘たち誰しもの喜びであるが、彼女の場合はことに、世間の人々から隔てられた暮らしのためにいまだに成長しきらずに残っている、より幼い喜び、つまりただ単に物を集めてたくわえることそのものの喜びを感じているらしかった。あどけなく微笑みながら、その小さな何の変哲もない折り鶴を一羽一羽と箱の中に並べていった。
 
 天気の悪い日には、雨戸の隙からさす光もなく、堂内はほんとうに真っ暗になった。何も見えなかったが、少女は闇の中で目を開いていた。布団にじっと身を横たえたまま、風雨の音、木々の揺さぶられる音を聞いていた。少し心細いような、怖いような気もしたが、それでも彼女はそんな音が好きだった。胸が不思議に高鳴るのだ。闇の向こう、降り続く雨の中から、彼女をさし招くもの、外の世界へと誘うもののごとき気配があった。それは彼女の心に憧れの念をかきたてたが、しかしここから出て行くことはできない。
 少女は闇の中で目を閉じた。すると心の眼は雨戸の外に広がる風景を、荒々しく乱れながら流れる黒い雲を、風に大きく波打つ木々を、また木の葉草の葉に激しく打ちつける雨を、ありありと描いてみせた。それはおそらく現実の風景ではなかったのであろうが――見ると、一人の凛々しくたくましい若者が、昔の狩装束をまとって馬に乗り、突風とともに天から駆け降りてくるではないか。あるいはむしろ彼こそは風の化身、風神に他ならなかったのかもしれない。馬は地上すれすれにまで降り、草むらは風の蹄に踏みしだかれ、木々の葉が数知れず旋風に舞い散った。若者はさも愉快そうに笑っていた。少女はその笑顔を美しいと思った。
 一瞬のことにすぎなかった。若者の姿はたちまち失せ、少女はわれに返り、ふたたび闇の中で目を開いた。やがて雨は次第に小降りになり、風も静まっていった。彼女の心もほどなく落ち着きを取り戻した。胸にともりかけた火も燃えつかぬまま、彼女自身にもそれと自覚されぬままに消えた。まるで何も起こらなかったかのように、彼女の意識はふたたび暗い御堂の平安に沈んだ。
 
 病気は次第に悪くなっていった。布団の上に身を起こしていることはたえてなくなり、昼となく夜となく、昏々と眠り続けていることが多くなった。目覚めているときでも意識は朦朧として、ほとんど何を感ずることも考えることもなかった。
 雨戸の隙から細く光がさしてくる。薄明の御堂は限りない静けさに満たされていた。世の中の誰からも顧みられることなく――いつしか付き添いの女の姿さえも消えていた。どこへ行ったのか、いつ去っていったのかも分からない。あるいは単に堂内の空気のなかに溶け失せてしまったのかもしれない。今はただ、おだやかな薄闇が少女を見守り、少女をやさしく抱きすくめている。
 まぶたを開いているとき、何も感ずることも考えることもなくなった彼女のまなざしに、ほとんど苦痛の色らしきものはなく、むしろ夢見る者のように恍惚としてさえいた。これまでの日々と変わらず彼女は無邪気であり、無心であり、そして幸福ですらあったかもしれない。行儀よく仰向けになっている彼女のまなざしの向かう先には、闇になかば沈んでいる格天井の、蓮華や菩薩や飛天の絵があった。あたかもそうしたものがすでに少女の魂を迎えに、浄土よりゆるやかに舞い降りてきつつあるかのように。枕もとには折りさしの鶴と、折り上げはしたものの手箱に納めることができずじまいになった鶴が、いくつか転がっていた。それらは暗がりに撒かれた白い蓮華の花弁を思わせた。