夜の海

 あなたは海を見ている。あなたの静かなまなざしが、眼鏡越しに、硝子窓の外の海へとそそがれている。窓の外は夜で、強い風が吹いている。空は雲に覆われているが、ときおりその隙から月の光が淡くさし、海面をほのかに照らす。風にあおられた白波が見える。海辺の松林が風に吹かれて音をたてている。部屋の中は、ろうそくよりも少し明るいほどの、柔らかな琥珀色の光に満たされている。古いストープに火があかあかと点っている。あなたは紫檀のデスクを背にして、苔色のビロードをはった回転椅子をこちらへ向け、肘を軽く卓上にもたせかけて座っている。琥珀色の傘のついたライトに照らされている卓上には、大理石のブックエンドに挟まれた、背表紙にアルファベットの書名のある本が何冊かと、楽譜が数冊ある。卓上に開かれたままの読みさしの本もある。何の本だろう。
 床に敷きつめられた乳色の絨毯の上を、マルチーズが一匹、白い絹糸のような毛を揺らしながらあちこち跳びまわっている。花瓶の載った小さな三脚台のまわりを、意味もなくぐるぐる回ってみたり、壁ぎわの若草色のソファの下にもぐりこんでみたり。あなたの膝の上には美しい黒猫が一匹、こちらはさきほどから心地良さげにじっとしている。あなたはときおり猫の丸い背をなでてやる。大きな、しかし繊細な、どこかしら白い木蓮の花びらを思わせる手である。ピアノをお弾きになれば、きっと似合うに違いない。お弾きになるのだろう。
 あなたは淡い灰色のタートルネックのセーターを着て、黒いコーデュロイのズボンをはいておられる。セーターはゆったりとした、ごく上品な印象のものである。部屋の中には、かすかに甘い、薔薇の花とおぼしき香りが漂っている。デスクの上に飲みさしのティーカップがあって、まだ少し湯気がたっている。薔薇の花びら入りの紅茶かもしれない。
 海を見つめているあなたの顔には、ごく穏やかな、静かな幸福に満ち足りたような、微笑みの気配らしきものが漂っている。いや、分からない。私には、あなたが何を考えておられるのか分からない。あなたの思いは私には測りえない。おそろしいほど澄んだ、灰色がかった黒い瞳は、私には底なしの謎である。そのまなざしは果てしなく深く、暗い。私を引きずり込むように。あたかも夜の海のように。あなたがそうして見つめている海そのもののように。あなたの瞳は海である。海が海を見つめている。私には見分かちがたい。暗い海が、その暗い潮が私をとりまいている。底なしの神秘の中で、私は溺れる。

 あなたは回転椅子から立ち上がり、私が横たわっている寝台のほうへ近付いてくる。にこやかに、そして、低いけれどもあたたかな響きのある声で、私に話しかける。
「お加減はいかがですか。なにか、ご用件はありませんか」
私はたまらない気分になって、毛布をはねのけて上体を起こし、両腕をあなたのほうへのばして、
「あなたが好きです。ああ、あなたを愛しています!」
そんな言葉を、われを忘れて口走る。しかしあなたは、あいかわらず穏やかな笑顔を浮かべながら、ただ、かすかに困惑した様子で、何も言わずに私の顔を見つめているばかりである。それは泣きやまぬ赤ん坊を見つめている母親の表情だ。赤ん坊の訴えそのものに対してではなく、赤ん坊が泣きやまぬことに対して困惑しているのだ。なぜなら赤ん坊の泣き声は、母親にとっては言葉としての意味をなさないから。そのように私の声も、あなたには言葉として届かない。おそらく言葉らしきものとしては響いているのだろうが、意味のある言葉としては届かない。
 めまいと虚脱感とをおぼえて、私はふたたび横になる。私のからだの上に、あなたはそっと毛布をかける。その優しさが私をいっそう絶望させる。私のからだは毛布の中で、糸の切れたマリオネットのようだ。あなたは言う、
「お気の毒に。もうしばらく、おやすみなさい」
私の目に、世界は途方もない渾沌の渦のように映る。しかしそれは私自身の錯乱が、そのように見せかけているのだろう。おそらくそういうことなのだろう。私の言葉は、あなたには狂人の無意味な譫言にすぎない。たとえそこに、どれほどの感情がこめられていようとも。私の、だらりと力の抜けた片腕の、指の先が少しだけ毛布の端からはみ出している。その指先の動きで、私はあなたを招こうと試みるが、あなたは気付くことなく、背を向けて、デスクのほうへ引き返してしまう。私は、私の弱々しい指先があなたの白い手に握りしめられることを、絶望的に夢想する――。そしてあなたは、苔色のビロードをはった回転椅子に腰かけ、肘を軽く卓上にもたせかけ、膝に跳び乗ってきた黒猫の背を愛撫しながら、ふたたび、おそろしいほど澄んだ、美しい瞳を夜の海へと向ける。