夜の森

 あなたの愛した森に、あなたの愛した美しい闇が、今夜も訪れた。夜々変わらず、昔から、またこの先も、変わることなく繰り返し訪れる、深い闇と静謐、ただ、あなただけがここにいない。あなた自身もまた、この先も変わることなく、夜ごとに、この美しい森の中を歩いてゆけるものと、信じて疑いもしなかっただろう。そのような日々の暮らしが繰り返され、何事もなく、その幸福をとりたてて自覚することもないままに、おだやかに静かに、年月は過ぎてゆくものと思っていただろう。

 片田舎の小さな町から町をつなぐ、この森の中の小道を、いくど行き帰りしたことだろう。懐かしい日々の暮らしの中で、ありふれた日々の営みとして。それは、ほんとうにありふれた、しかしかけがえのない幸福であった。なにげなく眺めわたす景色、聞くともなしに聞く物音が、どれほど豊かに心を満たしたことか。かけがえのない幸福、しかしそれは、あまりにもありふれた幸福であるかに思われた。いつでも戻ってこられるものと、あなたは無邪気にも信じていた。たとえしばらく不在の日々が続くとしても、かならず帰ってこられるものと。

 あの最後の夜、森の木々は、あなたがもうこの場所を訪れる日が来ないことを知っていた。森の闇は、すべてを知っているから。その深い懐に、過去と未来と、生と死についての、すべての知識を蔵しているから。あなたに愛されていることも、森は知っていた。闇はあなたの愛を受け入れた。一切を受け入れる闇は、無言のまま、あなたの愛のすべてを受け入れた。だが、あなたがもうこの森を二度と訪れないことを、哀しむものが、この深くおし黙った闇のどこかにあるのだろうか。

 あなたのまなざしが失われても、森はいままでと変わることなく、夜風は木々の梢のあいだを吹き渡り、梢の葉はささやきを交わしあう。夜の花がかすかに香り、草の匂いが立ちのぼる。ほのかな月明かりが、夜ごとにあなたの通った小道を照らし出す。木々の向こうの湖に淡い夜霧がかかっている。夜ふかしの水鳥たちがときおり一声、二声鳴き、羽音を立てる。あなたのいない森の中で、季節はうつろいつつある。次の季節の花がつぼみをほころばせはじめている。あなたに知られぬままに、あなたのまなざしに触れることのないままに、あなたのこよなく愛した花が。