十字架

 明るい広間に、何もなく、ただ十字架がひとつ立っていた。そこにかけられていたのは、私自身であった。私が、十字架にかけられた私自身を見上げていた。十字架上の私の身体の、いたるところから血と膿が流れていた。その身体は白い薄衣をまとっていたが、薄衣は血と膿に汚れ、刃にずたずたに切り裂かれて、ほとんど原形をとどめていなかった。茨の冠を戴いた首を垂れ、乱れた髪は血に濡れて、蒼白の頬にかかっていた。両の手首には釘が打ちつけられ、その先の両の手は力なく垂れ下がり、しおれた花のようであった。脇腹にひときわ大きな傷口があり、あたかも死そのものが無気味な口を開いているかに見えた。広間の明るさは、十字架の後方の壁にしつらえられた、大きな窓の外からさしてくる光によるものであった。陽光であろうと思われたが、それにしても、明るかった。あまりにも明るかった。光は白く、まばゆく白く、輝く洪水のように窓から流れ入り、つややかに磨かれた床の上に流れ、室内に満ちあふれた。十字架の上の私はすでに死んでいた。流れた血はすでに凝固しはじめていた。私は、私自身のその姿を、美しいと思った。愛おしかった。狂おしく愛おしかった。私は、死んだ私の苦悶を思い、たまらなく切なく、それとともに胸が焦がれるほどの思慕をおぼえた。息がつまるほどの思慕を。蒼白の皮膚は、真紅の血と黄金の膿とのおりなす網目模様に覆いつくされ、それらは失われた白い薄衣よりも、はるかに美しく死者の身体を荘厳していた。私は、足台に釘で打ちつけられた死者の足にとりすがった。冷えきった足に。私はその足を愛撫し、口づけした。唇が血に濡れた。
 ふと、私は、死者が私自身であり、この私と同一人物である以上は、私もまた死ななくてはならないのではないか、と思った。いま生きている私は、間違って生きているのである、あるいは自分が生きていると思っているのも何かの錯覚であり、その錯覚に気付いた以上、私はただちに死者としての自分に甘んじねばならない。それは私にとって天啓であった。瞬間、私は、心の奥底からの歓喜をおぼえた。私を満たすものは、いまや死のみであると思われた。それによって私は、死者である私自身と合一することができる。私はふたたび、私自身に戻ることができるのだ。