小舟

 灰色の薄明のなかに、鉛色の川が流れていた。雑草に覆われた、誰もいない川辺を私は歩いていた。
 ただひとり、真っ白な衣装を身にまとった乙女が、川岸から小舟を出そうとしている姿が見えた。近付いてみると、ごく華奢な、美しい娘であった。髪は黒く長く、肌はすきとおるような白さだった。蝋細工、あるいは雪花石膏の白さだった。あまり健康的な美しさとはいえなかった。私のほうには無関心なまま、痛々しいほど細い腕で、小舟をつないである綱をもやい杭からはずそうとしていた。どこへ行こうというのだろう。その腕で、どうやって櫂を漕いでいくつもりなのだろう。小舟は粗末な木製で、急流では、木の葉のように揉まれるだろう。このかよわい乙女を水難から守るには、その舟底はあまりに薄くもろいだろう。だが、綱を解く彼女の手つきには微塵の迷いもない。
 私は声をかけてみた。
「どこへ行くの」
 娘は私のほうへ顔を向けた。その顔には、見知らぬ者から不意に声をかけられたことに対する、驚きも当惑もなかった。落ち着きはらって、静かに、透明な声で、
「彼方へ」
と彼女は答えた。そのまなざしは、私のほうへではなく、私の背後にあたる川の下流、彼女の旅の遠い行く手のほうへ向けられていた。私はそちらを振り返った。灰色の風景の彼方に、ここからは見ることのできない水平線のあたりに、明るい光があり、そのあたりの雲を輝かせ、ここから見えるかぎりの遠くの川面をきらめかせていた。――だが、遠い。あまりに遠い。
「なぜ行くの」
「憧れのために」
彼女は簡単にそう答えた。無謀だと思った。だが同時に、うらやましくも思った。その若々しい、純真な無謀さがうらやましかった。私は少し意地悪な気分になって、
「なぜ憧れを信じるの」
と尋ねてみた。彼女は一瞬、返答に窮した。ああ、この子自身も、無謀であることはそれなりに理解しているのだな、と思った。そのことで私は小姑じみた満足を心のどこかでおぼえた。だが、すぐに彼女は毅然として答えた。やはり私ではなく彼方の光を、澄みきった目で見つめながら、
「それでも私は信じます」
と。それは小さな声だったが、彼女の心のたかぶりを伝える、張りつめた声だった。華奢な体躯、細い首にささえられた、蒼白い顔が、あたかも早春の野原の、かぼそい茎に支えられつつ、寒さに耐えて咲く小さな白い花のようにみえた。最も弱くはかないものが、昂然として胸を張り、遠い光を見つめている。それは希望そのものの美しい寓意像のようでもあった。
 娘は小舟に乗り、小舟は娘を彼方へ、たどりつけるのか分からない憧れのほうへと、ゆっくりと運んでいった。私はその姿を見送った。光のほうから風が吹き、彼女の長い黒髪を揺らしていた。虚弱であるに違いない彼女の身体が、不思議と、神話のなかの戦乙女のように凛々しく、力強くみえた。
 私は、そこで目がさめた。窓辺のベッドで私は眠り、夢を見ていたのだ。カーテンの隙から春の朝日がさし、私の枕辺を照らしていた。
 
 それから私は乙女の行方を捜し求めた。もう一度あの美しい姿を目にしたかった。彼女の冒険の続きを知りたかった。彼女の後姿をどこまでも追いかけてみたかった。まず、私はすぐに再び眠って、夢の続きを見ようと試みた。すっかり目が冴えてしまう前に、どうにかして浅い眠りのなかに潜り込めば、さきほどの夢の続きを、あるいは、去っていった夢の裳裾の端のような、わずかな幻影を見ることができることがある。だが、このときは無理だった。しだいに明るさを増してゆく太陽の光が、私の眠りを妨げた。姿勢を変えて、顔がカーテンと反対側の、室内の薄暗がりのほうを向くようにしてみても、その薄暗さのせいで、先ほどとはまったく別な眠りのなかに落ち込んでしまいそうになった。
 そこで別の方法をとってみた。完全に目が冴えてしまってからでも、眠りのなかで見たものを心にとめおきつつ、徐々に頭をぼんやりとさせていく、つまり自己催眠のやりかたで、夢の続きの手がかりを得ることができることがある。それは、幼い頃から自分ひとりの世界で遊ぶことが好きだった私には、慣れたやり方で、かなり高い確率で成功するのだ。だが、この夢については失敗であった。意識の深みをいくら捜しまわってみても、彼女はどこにもいなかった。そこは、もぬけの殻であった。これほどまでに手がかりを得られないというのは、この種の試みにおいて珍しいことだった。私の内界は、彼女を失い、彼女に見捨てられた、がらんとした薄暗がりでしかなかった。
 それで私は思った。夢のなかで、はるか川下のほうに見えたもの、乙女がそちらへと小舟を進めていった、あの光の正体は、たしかにカーテンの隙間からさし込んだ朝日であったのに違いない。あの夢は太陽が見せた夢だったのだ。ならば彼女の小舟は、まさに太陽へと進んでいったのではあるまいか。私の内界で生まれ、春の光によって憧れを目覚めさせられた彼女は、私の内界から去り、光の源へ向かったのだ。だから、もう彼女には会えない。遠く、輝く天の高みへ行ってしまったのだ。