人形

 夜明け前の街路を歩いてゆく男があった。空に月はなく、街灯もその道には少なかったが、男はさらにその街灯も避け、暗闇を選んで歩いていた。街路樹はすでに葉を落とし、石畳の冷たさが靴底から伝わって足裏をしびれさせた。彼は古びたハンティング帽を目深にかぶり、薄汚れたジャケットのポケットに手を突っ込んで、猫背がちに歩いていたが、そのジャケットの懐には一挺の拳銃が忍ばせてあるのだった。帽子の下で、目は炯々と輝いている。かつて彼の幸福を奪い、彼の人生を破壊した人物に、これから復讐をしに行くところだ。彼はその事件があって以来、ずっとそれだけを考えてこの時まで生きてきた。だが、首尾よく果たせるだろうか。――否、必ず成功させるのだ。彼は彼自身に厳しくそう言い聞かせる。この時のために俺は、多大な犠牲を払って拳銃を手に入れ、訓練に訓練を重ねてきたのだ。百発百中の自信がある。今や、俺だっていっぱしのヒットマンさ。そうじゃないか。だが、奴を殺りおおせても、なお容赦はするまい。一家皆殺しだ。だが、それはあんまり残酷だろうか。彼は心惑いをおぼえ、しかしすぐに頭を横に振る。――否、それだけの悪事を奴は働いたのだ。奴は悪党だ、極悪人だ。哀れみなど捨ててしまえ。うわっつらな良心のために、長年の苦労を無駄にするな。ああ、復讐が罪であるなどとは、なんと人間の本性にもとった思想だろう!
 目指す家にたどりつくと、針金を巧みに使って玄関の鍵を開け、侵入した。忍び足で屋内を見てまわる。ぽつりぽつりと常夜灯の光が見えるほかは、真っ暗で、家人どもは寝静まっている様子だ。ある部屋の扉をそっと開いてみると、どうやら子供の部屋である。玩具が床にちらばり、窓の外の街灯を淡く透かしているカーテンも子供の喜びそうな絵柄だ。カーテンのそばにベッドがあって、布団にくるまって横たわっている小さな人間の影がある。彼は自問自答する。こんな子供を殺しにきたのか。そうだ。そんなことが俺にできるものか。できるさ。だが、子供に罪があるものか。なに、お前だって罪もなく不幸になったのだ。この子が幸福に見えるなら、その幸福はそのまま、あの悪党が不当にむさぼっている幸福だ。お前だって今頃は、こんな可愛い子供と一緒に幸福に暮らしていたかもしれないのだ。復讐しろ。奴の幸福を破壊してやれ。撃て。彼は撃った。弾はその小さな人影に命中したが、人間の身体を撃ち抜いたにしては妙に軽い、情けない音がした。彼はベッドに駆け寄って布団をはぎ取り、愕然とした。そこに横たわっていたのは、ちょうど子供の身の丈ほどの、ちゃちな、大きなてるてる坊主のような人形だった。水玉模様の衣装をまとい、白い布で綿をくるんだ頭部には、漫画じみた笑顔が刺繍されていた。
 彼の襲撃の計画は、事前にこの家のあるじに察知されていたのだろうか。もしかしたら、すでに自分は罠にかかっていて、次の瞬間には警官たちが屋内のいたるところから姿を現すのではあるまいか。焦燥に駆られて子供部屋から飛び出し、廊下に出ると、すぐそばの階段の踊り場の常夜灯の光のなかに揺れ動く人影が見えた。彼は踊り場に向かって一発撃った。人間の形をしたものが、ガラガラと人間らしからぬ音を立てながら階段を転げ落ちた。ガチャンと割れる音を最後に、彼の足もと近くに横たわったそれは、やはり人形だった。踊り場から届くわずかな光に、陶製の頭部の、カーニバルの仮面じみた道化師の顔が半分かた砕けているのが、おぼろに見えた。なぜこんなものが階段の上で踊っていたのか。奴が上の階にいて、罠にかかった俺をからかっているのだ。捕らえた鼠をさんざ弄んでから殺す猫のように。あいかわらずの、性根の腐り果てた極悪人め。そう考えて彼は怒りに震え、拳銃を固く握りしめて階段を駆け上ろうとした。
 だが、そのとき玄関の暗がりに立った人影があった。新聞配達夫だ。玄関の扉にはさきほど侵入したまま内鍵をかけていなかったので、配達夫が家の中からの物音を訝しんで、扉を開けて様子をうかがっているのだ。その顔は暗くて見えないが、一方、階段のほうはいくらか明るいので、玄関からは彼の顔も見えているのかもしれない。不運な目撃者を彼は撃った。配達夫は倒れたが、絶命はせず、苦しげにその場でもがいている。急所をはずしたか、俺としたことが。なるべく苦しませないように、即死させるつもりだったのに。彼はいっとき身の危険を忘れ、そちらに走り寄った。だが、もがいている配達夫の体から発せられる、ギリ、ギリというおかしな機械音に気付き、あわてて飛びじさった。開いたままの玄関の扉の外から、遠い街灯の光がかすかにさし、ぜんまい仕掛けの大きなブリキ人形にすぎなかった配達夫の、金属光沢のある身体を闇からわずかに浮かび上がらせていた。
 そろそろ彼も事態の異様さに気付きはじめた。それは、仇敵と自分とのあいだの、私的な怨讐の範囲からすでに逸脱していた。彼は気味の悪いブリキ人形をまたぎ、街路に走り出た。バイクが走ってきた。彼はそれを撃った。バイクが転倒した。そこに乗っていたのは、空気でふくらましたビニール人形だった。弾を受けて空気が漏れ、バイクの下敷きになって急速にしぼみ、皮だけになった。さらに走ってきた乗用車を彼は撃った。車は方向を失い、対向車線を勢いよく横切って電柱に激突した。フロントガラスを粉々に突き破って、運転者が歩道に放り出された。衝突実験用のダミー人形だった。恐怖のあまりに彼は再び仇敵の家に駆け込んだ。依然として屋内は沈黙に支配されていた。ブリキ人形はすでにぜんまいが切れて止まっていた。暗闇と硝煙の臭いの中を、彼は大きな足音を立てて走り回り、階段を駆け上りながら叫んだ。
「おい、出てこい。俺はお前を殺しに来たんだ。出てきてくれ、頼む、出てきてくれ!」
 二階にひときわ立派な造りの扉を持つ一室があり、開くと、そこは贅を凝らした寝室だった。扉のすぐそばのスイッチを押すと、天井のシャンデリアが燦然と輝き、悪趣味に近いほど豪華な調度品の数々が照らし出された。真紅に金の刺繍のある天蓋のついたダブルベッドには、彼が探し求めている相手の顔に、じつに戯画的によく似た顔の布製の人形が横たわっていた。大きな枕に乗せてある頭部が、ちょうど扉のほうへ向けられており、ばかばかしく愛想の良い笑顔を浮かべていた。その隣には、赤く分厚い唇を半開きにして、こんがらがった毛糸の金髪を戴いた、揃いで作られたとおぼしい布製の女の人形が横になっていた。そうした滑稽な見かけに、かえって尋常ならざる恐怖心をあおられ、二体それぞれに一発ずつ銃弾をぶち込むなり、そちらから目をそむけて部屋を駆け出した。見たくもなかったのだが、それでも視野の片隅にちらりと、人形の詰め物のおがくずが噴水よろしく勢いよく吹き出して、枕といわず布団といわず絨緞といわず一面に散乱し、あたりじゅうを汚い黄色に染めてしまう様子が見えてしまった。
 最上階である三階に上った。ここも暗く静かで、人間のいる気配がなかった。階段を上りついてすぐのところに、街路に面した窓があった。彼はそれを開き、冬の早朝の冷気の中に身を乗り出して、おそるおそる外を見てみた。すでに空は明るくなりつつあり、街路は青っぽい薄明かりの中にある。さきほど撃ったバイクと自動車と、それらに乗っていた人形どもが、まだそのままの格好で転がっている。少し離れたところの歩道には、女が一人、小さな犬を連れて石畳の上を歩いている。いや、違う。あれは女じゃない。女に似せて作った、しかもひどい粗製の、かかしだ。かかしが石畳に突き立ててある。犬だって、あれは丸めた毛糸くずじゃないか。ぴくりとも動かない。この近辺の建物には二階建てが多いので、三階の窓からはかなり遠くまで見渡せる。そろそろ目を覚ましはじめた家々があり、いくつかの窓に明かりがともった。明かりはともらなくても、カーテンやブラインドが開かれた家々もある。それらの窓辺に立つ人々の姿を見よ。どいつもこいつも、人形だ。人形ばかりだ。ああ、なんと多くの種類の人形が揃っていることか。ビスクドール、カントリードール、マイセン人形、マトリョーシカこけし、はにわ、市松人形、ひな人形、キューピー、バービー、マネキン、人体模型、そのほか精巧な工芸品から粗雑な安物まで、じつにさまざまな人形どもが、ただ一様に、彼のほうを見ている。顔の半分かたを占める巨大な目から、顔に小さくうがたれた穴にすぎない目まで、すべての生命のない目、感情も意志もない目が、ただ感情に類した何か――感情に類してはいるが、意思疎通のまったく不可能な、完全に非人間的な、純粋な敵意、純粋な憎悪といったものを、まなざしの奥にみなぎらせている。そのまなざしは、どこまでも冷酷に、彼を犯罪者として裁き、罪人としての彼の存在それ自体を咎めている。
 彼は恐怖のあまりその場に倒れ込みそうになり、あやうく窓枠にしがみついて、なおもその光景を凝然と眺めつづけた。どこにも人間はいない。この世界のどこにもいない。胸の内に鼓動する心臓を持ち、温かい血が身体を脈打ってめぐり、拳銃で撃てば血を流して倒れる人間、弱く、不完全で、惑いやすい心を持ち、ときに過ちをおかしもする、愚かにもあわれなる「人間」なるものは、彼ひとりのほか、この世界のどこにもいない。朝日が昇り、東の空が赤みをおび、その赤みはさらにあざやかさを増しながら、空全体に広がっていった。その赤を、彼は、彼自身の心が流す血の色のように感じた。赤い光の中で、葉を落とした街路樹の黒々と広がる枝は、骨だけになった死骸の胸郭を思わせた。冷たい、乾いた風が空を吹き渡っていった。その風の中に、彼は、理由なしに世界を支配する「純然たる悪意そのもの」の笑い声を聞いたような気がした。