早速のお返事ありがとうございます。

 さて問題の件ですが、われわれの肉体というものは、要するに「卵」ではないかと思うのです。かつて私は、自分の肉体に、いや、すべての人間の肉体に、何かが欠けている、という印象をぼんやりと抱いていました。そしてあるとき、それが何であるかに気付いたのです。それは翼です。翼のない肉体は、われわれの魂の本来のありかたに見あったものではなく、むしろ魂を閉じ込める「殻」なのです。それでわれわれは、少なくとも私は、この世にあってたえず満たされぬものを感じ、なんともいえない息苦しさをおぼえるのです。魂は孵化を待つひな鳥のようなものです。殻は破られねばなりません。そしてこの肉体が砕かれるとき、殻は破られるのではないでしょうか。そのとき殻の外部の、新しい世界の光がわれわれの目にさし込むのではないでしょうか。そして、そのとき私の目に映る、いとしい親鳥の顔こそは、神の顔ではないのでしょうか。

 こんなことは、ほかの人に向かっては話したり書いたりしません。あなただから、こうして書いているのです。ほかの人なら、つまらぬ空想にすぎないといって、笑うか、あるいはこの世の生活をもっと尊ぶべきだといって、怒るか、私のことをいささか気のふれた人物のように見なして、敬遠するか、あるいはそもそも、このような話になど耳も貸さないかもしれません。けれどあなたなら、笑いもせず、怒りもせずに、私の話を聞いてくださるでしょう。あなたなら、きっと分かってくださるでしょう。

 それにしても、このような満たされなさ、息苦しさをおぼえながら、ほかの人と同じように、この世の生活にすっかり溶けこんでいるかのように振舞うこと、あたかも生きることを無条件に楽しんでいるかのような顔をしてみせること、つまり自分も世間並みの人間であるというふりをしながら生きることの、なんという侘しさでしょう。たえず自分の本心を抑え続けることの、なんという寂しさでしょう。それでも私にはあなたという友人がいて、こうした嘆きを共有することができます。共有することによって救われます。もちろん、根本的な救いではありえないわけですが。それでも、あなたという友人がいてくださることを、私は、この世において私に与えられた最高の幸福であると思っています。

 神が私を呼んでいるのです。この世のいかなる物音よりも、私の耳に、私の心の耳に、なまなましく聞こえるのです。いかなる人間の声よりも大きな声で、雷のような声で、おそろしく大きな声で私を呼ぶのです。それは私のまわりの誰にも聞こえないのですが、また私のほうも、まわりの誰の声も聞こえなくなります。まわりのいかなるものも見えなくなります。いや、いつもどおり耳は音声をとらえ、目は映像をとらえているのですが、それが心にまで届かなくなるのです。心の耳は神の声のとどろきの中にあり、心の目はすべてが神の光の中につつまれるのを見ます。神の光は雪のように白く輝く永遠の炎です。それはおそろしい光ですが、また、このうえもない喜びを私にもたらす光でもあります。もし根本的な救済というものがあるのならば、それはその光の中にしかあるはずがなく、また、たしかにそれはあるのだ。そう直覚される光です。そして怖れと喜びのあまりに、私の身体は、比喩ではなしに、震えおののきはじめます。手足がこわばり、冷たくなってゆきます。あたかも生命を失いつつあるかのように。しかも魂は活気をいやましに増してゆきます。私のまわりで神の嵐が荒れ狂うのです。神の翼の音を私は聞くのです。神の御使いたちの羽音が私をとりまいて嵐のように荒れ狂うのです。そこに、すぐそこに、私の肉体という「殻」のすぐ外に神がおられるのを感じるのです。神はやさしいまなざしで私を見守っておられるのです。卵の殻がひな鳥みずからの力によって内から割られるまで、心配しつつ、あたたかく見守る親鳥のまなざしのように。

 そして私は私自身の肉体を叩き壊したくなるのです。この忌まわしい肉体を引き裂きたくなるのです。
 光と響きの中で、私はわれを失い、わけが分からなくなって、ただわが身を傷つけることばかりを考えます。いや、それは光と響きとが私を傷つけようとするのかもしれません。なぜなら、この世の肉体はそうしたものに耐えるようにできていないからです。それはまた、卵の内側からひな鳥が殻を破ろうとするとき、外側から親鳥も殻をつついて助力してやるように、なんらかの力が外側から私に対して働いているのかもしれません。ばかげた考えでしょうか。そうかもしれません。発作的に、私は壁に頭を打ちつけたり、血が出るまで皮膚をかきむしったり、また一度などは、刃物で腕を切ったこともあります。そのようなことをして何になるでしょう。その程度のことで殻は破れはしないのです。しかしそのときは、ただ夢中だったのです。考える以前に、そうせずにいられなかったのです。そのあとで、ひどい虚しさに襲われたことは言うまでもありません。あれほど薄く感じられた殻が、現実には、なんと厚かったことでしょう。なんという巨大な壁に囲まれて、われわれは存在しているのでしょう。そのような現実をそれまで以上に痛感させられ、かえって深い嘆きに陥るのが常でした。

 私が自殺を考えているのでないかと、危惧なさっておられるのではありますまいか。
 そうです、かつてそれを何度も考えました。ほとんどそのことばかり考えて、これまでの人生を過ごしてきたといってもいい。それはあなたもおおよそ察しておられることと思いますし、いまさら告白しても、そのことであなたは私を咎めはしないでしょう。心配はなさるでしょうね。万が一、それを実行したとき、あなたは私のために悲しんでくださる人だと思っています。しかもなおあなたは、あなたご自身の心のどこかで、私がその行為を選んだことを理解してくださる人だ。そう信じています。そして、そのように信じることのできる友人がいるかぎり、そう簡単に自殺などできないものです。

 しかしまた、死んだところで本当にこの世の外へ出てゆけるものかどうか、分かりはしません。この世の外など存在しないのかもしれません。きわめて多くの人々が、それは存在しないのだと主張しています。その主張に対して、きちんとした反論をおこなうための材料を、私は何ひとつ持ちあわせていません。私はそれを夢見た、私はそれを心の目にありありと見た、というのでは、彼らの誰も説得されはしませんからね。その一方で、かなり多くの人々が、自殺者は地獄に落ちると主張しています。伝統的にそのように主張する宗教がいくつかあるわけですが、私はそうした宗教的伝統に属してはいませんし、また不可解なことに、それを主張している人々の多くも、実際には信仰心を欠いているようです。霊的な背景を失った、一種の脅し文句に過ぎないようです。さらに不可解なのは、この世の外などありはないと言い切り、地獄も否定しながら、しかも奇妙に教条的な調子で「自殺してはならない」と繰り返す人々の存在です。彼らに「なぜ自殺してはならないのですか」と尋ねようものなら、まともに答えることなく、ただ烈火のように怒り出すのです。あなたなら同意してくださると思いますが、それはもはや一種の通俗宗教であり、生きることがそれ自体で素晴らしいことであり、それについて疑ってはならず、疑う者はただちに悪い人間、あるいは狂った人間と見なされるわけです。おそらく、それを疑われることは、彼ら自身の存在の根拠を揺るがされることのように感じられ、あのように怒り出すのでしょう。その種のくだらない信仰を自我の支えとして必要とする連中は、時代を問わず必ずいて、そこに魂の真実が含まれているかなど、彼らの興味の外にあること、いかなる時代のその種の信者たちとも同じです。

 にもかかわらず私は、彼らの言葉を怖れています。彼らの言葉を聞き捨てにできないのです。このことは、あなたには分かっていただけないかもしれません。彼らと同様に、私もまた、それを夢見た、心の目にありありと見た、というだけでは自分自身を説得しつくすことができないということです。私は単に幻覚を見ているのかもしれない。私は狂っているのかもしれない。私にはついに死とは理解し得ないものであり、その点において、私と彼らとはまったく等しい条件下にあります。ならば、私が正しいという可能性とまったく等しい可能性において、彼らが正しいのかもしれない。彼らの主張が、ただ世間の常識によりかかって安心を得たいという意識に由来しているにしても、それでもなお、そのことによって、私の幻覚にすぎないかもしれないものが、多少なりと真実らしさを増すというわけではありません。このように私が考えてしまうのは、もしかしたら、現に生きている存在である私自身の本能が、本能に反する行為を避けようとして、無意識の奥底から意識の表層へ、そのような考えへと向かわせる力を送り込んでいるのかもしれません。あるいはまた、さきほど書きました、聖なるものそれ自体が私に与える、大きな喜びをともなうおそろしさ、そのおそろしさは喜びの大きさと同じほどに大きいものですが、そのおそろしさが、知らず知らずのうちに、私をそのような考えに向かわせているのかもしれません。いずれにしても死はわれわれの誰にとっても理解できないものであり、理解できないものは誰にとっても恐怖の対象となります。

 けれど、そうした疑念のすべてをほとんど圧倒し、消し去るほどに、大きな声で、雷のような大きな声で私を呼び、いつまでも呼んでやまざる声があるのです。なぜそれは私にしか聞こえないのでしょう。なぜ、あなたにさえそれは聞こえないのでしょう。なぜ、私だけが、その声を耳にし、おそれ、とまどい、この世とあの世の境界で途方に暮れねばならないのでしょう。われわれの肉体は「卵」です。われわれは「翼」を欠いているのです。われわれは「殻」の内に閉じ込められており、それを内側から突き破らねばならないのです。しかし、それはわれわれの誰も知らなくてよいことです。知らなくても幸福に生きてゆけるのです。みずからの不幸を知らないという、そのことが幸福を保証するのです。声が私を呼ぶのです。私はその声を信じるべきでしょうか。神の翼の羽音です。新しい世界の光がそこに、ほら、すぐそこに輝いています。雪の炎が燃えるのです。私は私自身の肉体を引き裂くべきでしょうか?

 しかし、いずれにせよ、いつか必ず終わるのです。生はいつか終わるのです。こんな日々はいつまでも続きはしません。