管絃船

 日はまだ昇らない。月もない。暗闇の中に、波の音と、彼女の小さな足音が聞こえる。彼女は手探りで歩いている。幾度も転んだ彼女の足は、傷つき、血が流れている。波の音が聞こえてくるほうに、ともし火がひとつ見える。そのともし火が、招いているような気がして、彼女はそちらへ行こうとしているが、手探りで少しずつしか進めない。足が痛む。翼が欲しい。翼で、一刻も早く、あの光のもとへ飛んでゆかなくては、まもなく光は消えてしまうかもしれない。
 光は、しかし彼女を待っていた。たいまつの炎であった。彼女がそれをはっきり認めたときには、あたりにはもう何も彼女をさえぎるものはなかった。暗い海へ向けて広々と開けた、船着き場であった。傷ついた足が光をめざして走った。光が彼女の顔を照らした。疲れ、思いつめた、青ざめた少女の顔を。同じ光が、たいまつをかかげている男の姿も照らした。銀の髭を生やした、優しい目をした老人であった。老人の背後には、古風な、大きな木造の船が一艘あり、船ばしごが渡してあった。
 少女は、老人の胸に倒れ込みそうな勢いで、あやうく立ち止まって、息をきらしながら、
「私を助けてください」
悲鳴のような声で訴えた。
「私をこの船に乗せてください、どこか遠くへ連れていってください」
老人は、目に微笑みを浮かべながら、落ちついた、おごそかに落ちつきはらった口調で言った。
「これは管絃船である。伶人しか乗れぬ」
少女には、意味が分からなかった。しかし、思いつめている彼女には、ともかくもこの老人に船に乗せてもらうよりほか、自分が助かるための方策が思い浮かばなかった。彼女はさらに訴えた。
「継母が私をいじめるのです。それはひどくいじめるのです。父も一緒になって、私をいじめるのです。私の本当のお母さまも、あの二人にいじめ殺されたようなものです。助けてください。私も殺されるかもしれません」
老人は、微笑みながら静かにうなずき、そして、やはりおごそかに言った。
「これは管絃船である。楽器を演奏できる者しか乗ってはならぬ。そなたは、なにか演奏できるのかな。見れば、そなたは楽器を持ってもおらぬ、手ぶらではないか。良い楽器を持っている者しか、この船に乗ってはならぬ。この船の乗り手たちは、みなそれぞれに素晴らしい楽器を持っており、それぞれがまたとなく素晴らしい楽器であるがゆえに、取りかえがきかず、予備の楽器などというものはこの船にはない」
少女は泣き出しそうになった。しかし、そのときひとつの考えが彼女のうちにひらめいた。彼女は叫んだ。
「歌えます」
自信などまったくなかった。歌は好きだったが、人並みに歌えるだけだった。ひらめいたとおりを叫んだまでであった。ともかくもこの船に乗せてもらえれば、この地を離れることができれば、どうにかなるのでないかという気がした。どうにかならないとしても、少なくとも、父と継母に見つかって連れ戻されるよりは、この船に乗り込んでどんなことになろうとも、まだ、ましなような気がした。
 すると老人は笑った。大きな声で笑った。悪意の笑いではなかった。おおらかな笑いであった。心から愉快で笑っているらしかった。笑いのうちに少女への好意らしきものがあった。
「乗るがよかろう」
 老人に導かれて彼女は船に乗った。暗い甲板の上に、ほとんどすき間なしに多くの椅子が並べられ、そのすべてに人が座っていた。たいまつに照らされても、誰も老人と少女のほうは見ず、黙ったまま、おのがじし自分の楽器をじっと見ているか、闇の彼方の水平線へと視線を向けているかだった。みな、白い衣装をまとっていた。たまたま彼女の服も白かったので、少しだけ安心した。椅子の列の、いちばん後ろの、いちばん端に、老人が椅子をひとつ置いてくれたので、座った。老人はたいまつを消した。しばらくの静寂ののち、まったくの暗闇の中で、かすかに空気が動き、音楽が始まった。耳になじみのない音楽だったが、彼女は、すぐに好きになった。なんてきれいな曲だろうと思った。そしてまた、音楽が始まってまもなく、船がゆるやかに進みはじめていることに気がついた。
 いままでの苦しみのことも、これから歌わねばならないということも、しばし忘れかけるほど、快い船出であった。行く手の水平線が少しずつ朝の光をおびてきた。舳先はまっすぐにその光のほうに向いている。やがて青い薄明かりが空の全体に満ちると、東の空にたなびく雲が薔薇色に染まりはじめた。それにつれ、甲板の人々の姿もはっきりと見えるようになってきた。若い者も、老いた者も、男も、女もいたが、いずれも高貴な相貌であった。しかし、それが少女を不安にした。ひとり残らず、そうなのである。世間では、このような人々のひとりでも目にするのは珍しいことなのに、ここでは、ひとり残らずそうなのである。いったい、この人たちは、どういう人たちなのだろう。すべての者が近寄りがたいほどの気品をたたえている。そのひとりひとりが、完璧に呼吸をあわせ、一言たりと言葉なく、ひたすらにひとつの音楽を奏でている。薄雲越しの朝日の中で、彼らの衣装はさえざえと白く輝き、それは朝日の反射であるよりも、むしろ衣装そのものが、あるいは彼らの身体そのものが放っている光のようだ。それはいかにも清浄な光であった。高峰の頂に輝く雪の白さであった。輝きはさらに増してゆく。――この人たちは人間ではない。そう感じて、少女は怖くなった。逃げ出したくなったが、船のまわりを見渡せば、もはやどこにも陸は見えない。船はゆるやかに進み、まださほどの時間は経っていないというのに。
 そのとき奏者のひとりが、自分の楽器を弾きながら、少女のほうをちらと見た。彼女の挙動を疑っている様子ではなかった。それどころか、彼女をすっかり信頼しきって、なにか大切な合図を彼女に送っている、そういう目くばせであった。歌い出しの合図なのだ。彼女はただちにそれを悟ったが、はじめて聴く音楽である、歌えるはずもない。どうすることもできない、逃げる場所もなく、信頼を裏切って、自分はこの船に乗る資格のない者であったと白状するしかない。
 だが、そのとき、彼女の唇は、彼女の知らない歌をすでに歌いはじめていた。彼女が自覚するより前に、歌そのものの力が、彼女の内から、彼女の不安を突き破って、光の中にみずからを放ち、船の上に満ちた。それは自然に楽器の響きと溶け合った。美しい歌であった。伶人たちはそれぞれの顔に満足らしい色を顔を浮かべて、演奏を続けた。少女の唇はよどみなく歌い、それは少女自身にも不思議と、自然なことのように思われたので、もしかしたら自分ははじめからこの音楽を知っていて、ただ長いあいだ忘れていただけではなかったかという気がしてきた。歌とともに自分の魂が、ながらく閉じ込められていたものから、光の中へ放たれてゆくような気がした。はるかな昔、覚えていないほどの昔、ごく幼い頃、悲しい日々がはじまるより前に、この歌を覚えたのかもしれない。そう思いはじめると、たしかにそうであったと思えてくるのだった。知らなかった歌が、次第に、懐かしい歌になり、もはや唇が歌うのではなく、彼女が歌っていた。しかもなお、とまどいながら歌っていた。あまりに深い眠りから、ふいに朝の光のうちに目覚めた者のとまどいである。
 魂は歌とともに解き放たれ、さらに歌は翼となり、はばたきは彼女の心臓の軽やかな鼓動となって、彼女は椅子から立ち上がり、ほとんどすき間なしに並んでいる奏者たちの椅子のあいだを、何ものにもさえぎり得ない風のようにすりぬけながら、舳先のほうへと、歌いつつ歩きはじめた。自分でも、どうやって自分が歩いているのかがよく分からない、翼の力に違いない。少しとまどいながら、しかし当たり前のことのような気もしつつ、歌の翼に少女は運ばれてゆき、奏者たちも誰ひとりそれを訝しむ様子もなく、愉しげに演奏を続けていた。
 東の水平線近くの薄雲から、朝日が姿をあらわし、燦爛たる光を世界に投げかけた。舳先にいちばん近い椅子には、竪琴を弾く貴婦人が、舳先に背を向けて、歩み寄ってくる少女のほうに向かって座っていた。その女性の後頭部に重なって太陽が昇ってきていたのである。それは後光であった。少女は畏怖をおぼえた。貴婦人の椅子には、血赤色の珊瑚の枝に純白の真珠の花をあしらった装飾があった。椅子の下には海青色の絨毯が敷かれていた。竪琴は金色に輝いていた。数多くの奏者たちのうちで、この女性が特別な存在であることはあきらかだった。顔は逆光になって暗く、ややうつむいて、竪琴の弦にまなざしを落としていた。慈しみに満ちた女神のまなざしであった。まなざしが少女のほうへ向けられた。母であった。