山鳩

 子供の頃、私はいつも一人で遊んでいた。友達は誰もいなかった。しかし私は寂しいと感じたことがなかった。一人で遊ぶのが楽しかった。なぜ、ほかの子供たちが群れをなして遊ぶのか、私には分からなかった。一人で遊ぶほうがずっと楽しいのにと思った。私は退屈を知らなかった。目に映るすべてのもの、紙くず、小さな消しゴム、三角定規、壁のしみ、庭の石ころ、雑草の花、落ち葉、空を行く雲、そういったもののすべてが私を楽しませた。世界の一切が私の玩具であった。私は幸福な子供だった。誰よりも幸福な子供だった。
 私の親は、昼のあいだはたいてい家にいなかった。また、親のかわりに私に目配りをする大人もいなかった。しかし私は心細さを感じたことがなかった。私が子供時代を過ごしたのは田舎の小さな町で、遠い昔には栄えた時代もあったというが、すっかり寂れてしまい、由緒ありげな古い屋敷や寺院がそこここに、廃虚になって残っているような町だった。道行く人も少ないその町を、子供の私は気ままに歩きまわったものだった。町の西のはずれには、あまり高くない山がある。かつて町が栄えていた遠い昔から、その山はもっぱら墓所とされていた。その山道を私はよく歩いた。春には桜が咲き、夏になれば蝉やかぶと虫が捕れる。秋は紅葉が、冬はいちめんの雪が美しかった。それにまた山の上から眺める町の様子は、寂れた町とはいえ、子供にとっては見飽きることのない楽しいものだった。
 山道の両側には墓が並び、木々の枝が天蓋のように山道と墓との上に広がっていた。それらの枝のどこかから、よく鳩の声がした。低く柔らかなその声は、子供の頃のことを私が思い出すたび、いつも記憶の深みから響いてくる。子供の頃、私は鳩笛を手に入れて、その音が本当に鳩の声に似ていることに驚いたものだった。しかしまた、本当の鳩のように美しく吹くことはどうしてもできなかった。山道ではつねに鳩が鳴いていた。記憶の中では、その頃の私のまわりにはつねに鳩の声があったかのようだ。もしも大人たちのかわりに私を見守る者があったのだとしたら、それは鳩だったのでないか。だからこそ私は少しも心細さを感じずにすんだのではないかという気がする。

 懐かしいその山道に私はふたたび来た。すべてが変わってしまっているのでないかと心配したが、そんなことはなかった。なにも変わってはいないのだが、しかし、木々の天蓋はこんなにも深々と茂っていただろうか。墓場はこんなにも暗かっただろうか。西に傾きかけた日の光が木の間越しにさしてくるこの時間は、かつて学校から帰ってきた私がここで遊んでいた時間である。光のさしかたが当時と違うようにも思えないのだが、私はこんな暗いところで遊んでいたのだろうか。そしてまた墓はこんなにも古いものばかりだっただろうか。ひどく苔むし、刻まれた文字は磨滅し、土台から傾いているものさえある。遠い昔からこの山は墓所であったのだから、私が子供の頃から、じつはずっとこんなふうだったのかもしれない。それにしても、ここへ来る途中にも、町を歩く人の姿がかつてよりさらにまばらになったような印象を受けたし、廃屋の数も増えたような気がした。あちらこちらに、壊れた塀、破れた窓を見た。かつてもそうだったのかもしれないが、かつてよりもいっそう寂れつつあるのかもしれない。

 山道では私は誰にも出会わなかった。鳩の声がした。墓場の向こうに寺院らしき建物が見えたが、朽ちた木の扉がはずれかけ、壁が崩れて大きな口を開けていた。暗い木立ちの中に、いよいよ傾いてきた日の光が細くさしていた。赤い光である。木々の枝越しに、夕焼けに染まった空が見えた。光はさらに赤みを増してゆく。赤い光が苔むした墓石の上に落ちる。地面のあちこちに点々と赤く落ちる。血のようだと私は思う。子供の頃、夕日の光はこんなにも赤かっただろうか。だが、懐かしい。たとえ当時はこんなに赤くなかったとしても、今の私には、この赤さ、この血のような赤さこそが、あたかも私を失われた遠い日々へと引きさらってゆきそうに思われる、郷愁の色である。もの狂おしいばかりの郷愁の色である。鳩が鳴いている。あの頃の私は幸福だった。
 血の雨が静かに降って、そこかしこを赤く染めてゆく。ほとんどの葉が血に染まってしまった木々のひとむらを私は見た。いや、違う。それはベニカナメモチの生け垣である。紅葉の季節でなくても赤いのだ。その生け垣はかつてもそこにあり、小さな無人の御堂を囲んでいた。私はよくそこで遊んだものだ。そこは私の特別な遊び場だった。ほかの子供たちの知らない、私だけの秘密の遊び場だった。その頃の楽しさがにわかに心によみがえってきた。とはいえ、よみがえってきたのは楽しさだけで、なにが楽しかったのか、どんなことをして遊んでいたのかは、はっきりと思い出せないのだが。私は胸を高鳴らせながらそちらへ歩み寄った。赤い木々に囲まれた聖域には、なにか楽しい秘密が隠れているのだ。
 鳩の声がした。たしかに生け垣のうちから聞こえてくるのだ。私の鳩笛に似た、しかし私の鳩笛よりもはるかに美しい、あの懐かしい声である。私は、鳩を驚かすまいと、息をひそめて、そっと生け垣のうちをのぞきこんだ。
 ところが、そこにいたのは、人の姿をしたなにかであった。人に似た、人ではないなにかであった。それは私よりも少し背が高く、若く美しい顔立ちをしていたが、男とも女ともつかなかった。あるいは男でも女でもあったのかもしれない。背には大きな翼があった。その翼は赤みがかった灰色であり、鳩の翼の色であった。手には素朴な造りの鳩笛を構え、今の今まで吹き鳴らしていた様子で、その歌口からわずかに唇を離して、はっとした表情で私を見ていた。私はその顔立ちに見覚えがあった。いや、顔立ちについては、見覚えがあるようでもあり、ないようでもある。むしろその「まなざし」を私は覚えていた。その眼に、その黒々とした瞳に、かつて親しく見つめられたことがあった、あったはずなのだ。だが、それはいつ、どこでだったろう。この場所だっただろうか。思い出せない。もしかしたら、いつでも、どこでも私を見つめていたのではないか。私はつい大きな声を上げてしまった。
「ああ、あなたは」
一瞬の幻だったのだろうか。次の瞬間にはそこには誰もおらず、ただ一羽の鳩が突然に私の目の前から飛び立ち、木々を越えて、赤く輝く空へ舞い上がったばかりであった。私は鳩を追って走ろうとした。しかし木々が私の行く手をさえぎった。鳩はたちまち彼方へ飛び去ってしまった。
 
 ……飛び去ってしまった。私はどうしよう。鳩が向かったあの方角には、川が流れ、その岸は高く切り立った崖になっている。翼を持たない者にはそこを越えることはできない。しかし、分かりはしない。翼のない身体はそこから転落しても、むしろそこから転落することによって、魂だけは翼を広げて、血の色に輝く空をどこまでも鳩を追ってゆけはしないか。