恩寵

 暗い部屋のなかで、私のまわりの床だけがぼんやりと白くみえる。あたかも雪の降る真夜中に、暗がりのなかで、あたりに積もった雪だけがぼんやりと白くみえるように。いったい部屋がどれほどの広さなのか、窓はあるのか、天井はどれほどの高さであるのか、なにも見えず、なにも分からない。ただ私のまわりの床だけは、白い石が敷きつめられていることが分かる。部屋の広さは分からないが、闇を満たしている漠然とした気配から、とても広い部屋なのではないかと私は思う。天井もかなり高いのではないか。聖堂のような場所ではないかと思う。空気にかすかに香の匂いが混じっているような気もする。
 厳粛な場である。暗いからといって、気味の悪さは感じない。聖なる闇である。だから、私のまわりの白い床に、ばらばらに切断された人間の死体が散乱しているからといって、恐ろしいとは思わない。死体の皮膚を見ると、まだ若い人間の皮膚であるようだ。みずみずしく、張りがあって、皺も染みもない。夭折者――。体つきは、どちらかといえば華奢なほうである。私の足もとに片方の手が転がっている。肉付きの薄い手、ずいぶん細い指をしている。私の視力のおよぶ範囲には死体の頭部はないので、顔立ちは分からないものの、美しい死体であると私は思う。聖なる闇のなかで、その死体もまた聖なるものであるように思われる。――夭折者こそは褒むべきかな。そしてまた顔立ちは分からないにもかかわらず、これが誰の死体であるか、私は薄々とながら気付いていた。
 死体が私に語った。闇のどこかに転がっている頭部が語ったのかもしれないが、どこからその声が聞こえてきたとは私には特定できず、ただ死体が語る声だということだけは分かった。
「なぜ、これらは汝の死体ではないのか。もはや若くはない者よ。これらは汝の死体であるはずだったのだ」
それは私自身の声であった。やはりそうか、と思った。より正確には、若き日の私自身の声であった。
「もはや若くはない者よ。もはや美しくはない者よ。なぜ汝はこうならなかったのか」
声は繰り返し問うた。私はそれに対して、恥じることのない答を思いつかなかった。その声は、現在の私の生そのものをとがめる声であり、恐るべき、聖なる声であった。
「もはや美しくはない者よ、もはや清くはない者よ、なぜ汝はこうならなかったのか」
問いは繰り返され、やがてそれはさらに厳かな、重々しい声によって取って代わられた。
「なぜ汝はこうならなかったのか。なぜ、死ななかったのか」
神が私に問うたのである。
 私は、恥ずべき自分をそのまま語るしかないと思った。それしか答はありえなかったし、答えることを拒むわけにもいかなかったから。しかしまた、できることなら、せめて神の許しと憐れみとを受けられるような答えかたをしたかった。そこで私は考え、こう答えた。
「いいえ、神よ。私は死んだのです。ここに散乱している死体こそは、ほかならぬ私の死体です。なぜならこれらの死体は、私の声で語っていたではありませんか。ですからこれらは私の死体であり、より正しくは、私の魂の死体です。生きているかのように見えるこの私は、抜け殻にすぎません。若き日に死ななかったことによって、私の魂は死んだのです」
そして私は石の床にひれふし、暗闇のどこかにいる神に哀願した。
「いまや私は、空疎な生をただ生きている存在にすぎません。私はからっぽです、からっぽなのです。私には死ぬ勇気がなかった。死ぬのが怖いという、それだけの理由だけから、おめおめと生きながらえてしまった。その結果、私は魂を喪ってしまった。私はもう私ではない、もう何者でもない。なんという惨めな生でしょう。私は苦しい。なにとぞ憐れみたまえ、憐れみたまえ」
神はこれらの言葉を黙って聞き終え、ややあって静かに答えた。
「ならば汝にひとつの福音を授けよう。……まだ遅くない」
 
     *
 
(Gloria in excelsis Deo)

 こんなことは誰にも打ち明けはしないし、また打ち明けたところで、誰もまともに取り合ってはくれまいが……。私は子供の頃からずっと、ひとつの約束を神様と交わした上でこの世に生まれてきたような気がしてならない。その約束とは、私がどのようにしてこの世から去るかについての約束だ。つまり「私は自殺するのだ」という約束である。なぜそんな約束をしたのかは分からないが、ともあれ約束は成立し、それは神様を相手の大切な約束であるから、もはや私の一存で動かせはしない。

 私は子供の頃からずっと、自殺することばかりを考えていて、しかも自分でも、なぜ自殺することばかりを考えているのかが、よく分からなかった。もっともらしい理由をあれこれ並べてみたこともあったが、結局すべて後づけの理由にすぎないことは、私自身の心が最もよく知っていた。それらの理由がすっかり取りのぞかれたとしても、やはり私は自殺することばかり考えているのに違いないのだ。しかし、生まれる前に神様と約束したのだという子供じみた説明だけは、今なお私の心にしっくりとくる。

 そして、たとえこの私が神様と約束したのだとしても、この私はほかならぬ神様によって作られたのであるから、神様と約束を交わした私の心、そして自殺することばかり考えている私の心もまた、神様がこのようなものとして作りたもうたのである。だから、自殺することを考えまいと私が努力するとき、あるいは自殺することを考える私の心を私自身が叱るとき、生きることこそは私という存在を持続させることであるはずなのに、あたかも、それが私の心を、また私という存在そのものを否定することであるかのように感じられて、苦しいのだ。神様が私をこのようにお作りになったのであり、こういう私ではない私になろうとすることは、神様のご意志に逆らうことである。

 にもかかわらず、私は今なお生きている。おめおめと生きている。神様を相手の大切な約束を、ただ「死ぬのが怖い」というだけの理由から、日々、刻々と、破り続けつつ生きている。愚かな、卑しい、役立たずの私が、ひとえに臆病さゆえに、恥知らずにも生きている。

 にもかかわらず、神様は寛大な御方であるから、このような私を許してくださっている。神様こそは限りなく忍耐強い御方であるから、こう仰せになられる。
「いつまでも待っている」
と……。

 私には奇妙なことに思えてならないのは、世の中では、神様は自殺を禁じておられることになっているという事実である。私には、それは間違っているという気がしてならない。だが、分からない。私が間違っているのかもしれない。私は愚かであるから。しかし私が愚かであることを、私はどうすることもできない。私が私自身に自殺を禁じるとき、私の肉体は生きるが、私の心は死ぬ。とはいえ私は、怖くて自殺することができない。そして、自殺できない私を、神様は許しておられる。それで私は生きられる。この信仰によってこそ私は生きられるのだ。限りなく寛大にして忍耐強い神様の恩寵により、私は今日も生きている。神様に栄光あれ。