夏の朝

 僕は、何を書こう?
 書きたいことがあって、こうして机に向かっているのだ。にもかかわらず、いつまでたっても鉛筆は動かず、白い紙は白いままだ。時間だけが刻々と過ぎてゆく。真夜中に、僕ひとりだけが目を覚ましている。静かな部屋に、時計の音ばかりが耳ざわりなほど響く。夏の夜は短い。こうしているうちに夜が明けてしまいそうだ。書きたいことは、たしかにある。僕の頭のなかにみっちりとつまり、胸のうちにふくれあがり、ほとんど僕の身体を食い破って外へ飛び出さんばかりだ。でも、それが言葉にならない。いつもこうだ。言葉にしたいものは、いつも言葉にできないものだ。
 言葉にすることではじめて、考えは考えとしてまとまるものだという。だから僕の考えは、考えにならぬまま、かたちの定まらぬもやもやのまま僕のうちにあって、僕を苛立たせ、また不安にもする。苦しい。苦しいのだ。この苦しさをどうやって、誰かに伝えることができるだろう、苦しめているものが要するに何であるのかを、自分自身にさえまともに説明することができないというのに。
 言葉にできないものなら、いっそ言葉にするのをやめてしまおうか。それはもしかしたら言葉にすべきでないものなのかもしれない。むしろ僕は、祈るべきなのかもしれない。言葉なく、ただ、祈るべきなのかもしれない。しかし僕はいったい、いずこのいかなる神にむかって祈ればいいのだろう。僕は宗教を持たないのに。そしてまた宗教を持たない僕は、宗教が祈りのために定めた経文をも持たない。祈るにも、祈りの言葉が必要なのだ。
 僕は白い紙を前にして、ひたすらに途方に暮れる。ひと晩じゅう――僕には言葉がない。
 夜が明けそめる。眠い。僕はうとうとと机につっ伏して、夢を見た。いや、夢だったのだろうか。そのとき見た非現実的なできごとは、結局のところ、現実の世界にいかなる痕跡も残さないまま消え失せてしまったのだから、たしかに夢ではあったのだ。しかしそのときの僕にとっては、そもそも眠りそのものがひとつの救いではあった。そしてさらに、その夢が大きな慰めを与えてくれたのだから、少なくとも僕の主観にとっては、単なる夢と片づけられるものではないのだが……。
 夢であったことはたしかであるのに違いないそのできごとのあいだ、僕はずっと目覚めていて、机につっ伏してはいたものの、机の上の白い紙や、投げ出した鉛筆、すこし開けてある窓、その向こうの空といったものは、すっかり僕の視野に入っていた。空はどんどん明るくなってゆく。真夏の朝の強烈な光が窓からさしこみ、白い紙の端におちた。すると紙は、そこから燃え出したのだ。そして何者か、僕のついぞ知らぬ何者かの声がおごそかに響いた。
「おまえの祈りは聞き入れられた」
聞き入れられた、と。僕はいかなる言葉も持たなかったというのに。しかし白い紙は燃えあがり――僕の言葉なき祈りが、言葉なきままに、炎とともに舞い立ち、刻々と輝きを増してゆく空の高みへのぼりゆく。