来訪者

 天気がよかったので、鳥籠を庭木の枝にかけてやり、私はその木のすぐそばで、庭と道路とを区切る柵にもたれて立っていた。鳥は籠のなかを跳ね回りながら歌った。道路の幅は狭く、人通りも少ない。里山の木々のあいだを縫いながら、いくらか距離をおいて建つ家々をつないでいる、林道めいた道である。初夏の風が吹いている。正午に近い光を浴びて、庭はまばゆく明るいが、道路には木立ちの影が落ちて少し暗い。
 その薄暗がりのなかから歩いてきた少女があった。私はその少女を知らない。年の頃は七、八歳ほどか。ぼんやりしたようすで歩いてきたが、柵をはさんで私の目の前にぴたりと立ち止まり、じっと私を見た。そのまま黙っている。私は困ってしまった。
 とりあえず挨拶をしてみた。
「こんにちは」
少女は、
「こんにちは」
と答えたが、挨拶などどうでもよいといった風情で、微笑のかけらさえも表情に浮かべず、といって不機嫌らしい表情でもなく、あいかわらず私をじっと見ている。きれいな顔をしているが、なにを考えているのか分からない顔でもある。
 つやつやとした髪は、肩まで届くか届かないほどの長さで、白いブラウスに、白いベルボトムのズボンをはいている。ブラウスはゆったりとした裁ち方で、襟や袖口に大きなレース飾りがついている。ズボンは柔らかな布でできていて、その裾は風にひらひらするほど広がっている。そんな格好がこの子供にはよく似合って、まことに優雅にみえる。ふと、ブラウスのボタンのかけかたが男物のそれであることに気付く。たまたまだろうか、それとも、じつは男の子なのだろうか。そう思って見ると男の子のようにも見えてくるが、よく分からない。
 お互いに黙りこくっているのが私には気まずく思えて、あたりさわりのないことを尋ねてみることにした。
「どこから来たの」
「このあたり」
子供はそっけなく答えた。そして視線はあいかわらず私にじっとそそがれている。このあたりにはあまり民家はないのである。たいして多くない住民たちはたいてい顔見知りである。私はこの子供を知らない。しかし嘘をついているらしい様子でもない。私はさらに尋ねた。
「学校はどこ」
尋ねてから、はたと心づいた。平日の午前中に、なぜ学校に行かずにいるのだろう。もしかしたら特別な事情があって、ほとんど自宅の外へ出ないのではないだろうか。その事情によっては、私の尋ねたことは、この子供を傷つけることだったかもしれない。しかし子供はみじんも傷ついた様子はなく、あいかわらずそっけなく、しかも、きっぱりとした調子で答えた。
「学校には行っていません。行く必要がありません。なにかを知る必要がありません。必要なことはすべて知っています」
この子供は少しおかしいのかもしれないと思った。しかし、あいかわらず私にひたと向けられているまなざし、引きしまった口もと、それに言葉の調子からは、むしろ年不相応なほど賢そうな印象を受けるのだった。
 おかしいと思う私がおかしいのであって、本当にこの子供はなんでも知っているのではないか、という気がしてきた。すぐにまたその考えを打ち消し、その子供のあまりにも澄んでいる瞳に、ある種の異常さの気配を私は見出そうとした。たしかに賢そうではあるのだが、その瞳からは、心の動きをうかがうことができないのだ。知的に物事をとらえることはできても、感情をもって世界とかかわることができない子供なのではないか。私はそこまで考えを進めてから、にわかに、もしかしたらその感情があまりにも深すぎて、私にはその底までを見通すことができないというだけではないか、という気がしてきた。すぐにまた私はそれを、考え過ぎであると否定した。私の目の前にいるのは、要するに小さな子供である。……もうすぐお昼だ。
「もし、おなかがすいていたら、よかったらうちで」
「結構です」
 正午近くの光が降りそそぎ、初夏の風に木々のざわめく音のほかには、なにも聞こえない。子供の白い服ががひらひらとして輝き、まるで陽炎を見るようだ。本当にこの子供はここにいるのだろうか。実在するのだろうか。ここには私のほか誰もいないのではないだろうか。私は気が遠くなりかけて、空を仰いで、その空の青さに眼を射抜かれる思いがした。ただ単に青空に見とれただけであるかのように私は装って、子供に言葉をかけた。
「いいお天気ですね」
子供は少しだけ上を向いた。すぐに元の姿勢に戻って、けれども視線は私のほうへ戻さず、しばし宙をさまよわせた。ぼんやりした表情のようで、そうでもないようだった。視線を外に向けずに、内側の感覚に向けている様子にみえた。あるいは視覚ではなく、聴覚か皮膚感覚かなにかを鋭敏にしているようでもあった。二、三秒ばかりそうしていてから、
「このお天気は明日の午後までは崩れません」
なんということもない口調でそう言った。そしてふたたび私を見た。
 私はどうしたらいいのか分からなかった。もしかしたら次の瞬間には子供は光に溶けて、消えてしまっているかもしれない。しかし、さしあたり今この瞬間においてはどうやら存在しているらしい以上、相手にしないわけにもいかない。ならばむしろ、あたりさわりのない言葉ではなく、はっきりと尋ねたほうがよいのではないか。そこで、
「なにか用事があってここへ来たの」
と尋ねてみた。すると子供は、まったく表情を変えないままだったが、
「はい」
と答えた。そして庭木の枝に吊り下げてある鳥籠に視線を向けて、
「鳥を逃がしてください」
と言った。おかしな注文をするものだとは思ったが、それまでのやりとりからすれば、むしろ小さな生きものに対する幼い正義感が感じられて、まだしも普通の子供らしいと思った。
 とはいえ、この鳥は先日、すなわち私がこの家に住みはじめてまもなくのことだが、庭に舞い込んできたものを捕まえて、飼いはじめたものである。とても美しい鳥で、この家で新しい生活を始めるにあたり幸先のよいものに思われた。それで餌ひとつにもそれなりに手間をかけたりなどして、大切に飼ってきたのである。もともとこの子供が飼っていた鳥なのだろうか、とも想像してみたが、そうならば、返してくださいと言うはずで、逃がしてくださいとは言わないだろう。飼ってはならない決まりになっている鳥だということもありえない。この地には野鳥を捕らえることを禁ずる法律はないし、さらに飼いはじめるときに念のため役所に相談にも行ったのだから。
 子供は私の返答をじっと待っている。私はしばらく考えた。鳥を手放したくはなかった。しかし、なにを考えているのか分からない子供が、ようやく、奇妙な願いではあるが、たしかに具体的なひとつの願いを語り、それが私によって叶えられるのを心待ちにしているということが、つまりここでようやくできた子供と私の心情的な接点めいたものが、私を迷わせた。それにまた、鳥も魅力的ではあるが、わけの分からないこの子供にも私は魅了されていた。姿の美しさのせいもあっただろうが、わけの分からなさそれ自体も私を魅了していたのに違いない。この子供が望むのであれば、なんでもしてやろうという気持ちが私のうちにあった。
 私は鳥籠を庭木の枝からはずした。そして鳥籠の小さな戸を開こうとして、また迷った。子供を見ると、子供もまた私をじっと見ている。しかたがない。私は戸を開いた。鳥は止まり木の上でちょっと飛び跳ねてから、はじかれたような勢いで外へ飛び立った。激しく羽ばたいた真っ白な翼が、正午近くの太陽の下であたかも純白の閃光のようだった。次の瞬間、子供は消えていた。鳥は木立ちの向こうへ飛び去っていった。
 私は、ああ、鳥だったのだなと思った。