十字架

 ふと、窓の外を見る。真夜中である。空には雲がかかっていて、月も星も見えない。古びた家の立ち並ぶ、田舎の住宅地。人々は寝静まり、街灯のほかに光というほどの光はない。見慣れた景色である。夜々、見るともなしに見てきた景色である。だが今夜の私の目に、立ち並ぶ家の屋根の向こうに、暗い空を背にしておぼろに黒い影として見える、あの巨大な十字架はなんだろう。
 あんなものが立っていることに、なぜ今まで気付かなかったのだろう。あのあたりにも家があるはずだが、住んでいる人たちがそれについて話しているのを聞いたことがない。いや、どうだろう。あのあたりにかぎっては、誰も住んでいなかったかもしれない。ちょっとした空き地になっていた気がしなくもない。あるいは小さな公園があったような。そうだとしても、あれほど大きなものを立てるなら、少しぐらいは工事の物音が響いてきそうなものだ。それとも大きさの割には手間のかからない工事で、たいした物音も立てないまま、もしかしたら私の留守中に工事が始まって終わったのかもしれない。どうあれ、一体なんのために立てられたものなのか分からない。分からないなりに、なにがなし、不吉なもののように見える。いや、そうだろうか。そうでもない気がしなくもない。ともあれ、興味深い。私は窓を開けて、窓の外へと身を乗り出した。ストーブで暖まりすぎていた室内に、冬の夜風が流れ込んで快かった。
 ……ああ、電柱だ。家々の向こうの電柱とその横木が十字架を作っていて、暗い空を背にして、いつもより変に大きく見えたのだ。いつもなら目をとめもしないのに、今夜だけはそんなおかしな見えかたをして私を驚かせたのだ。
 空は暗く、電柱はさらにいっそう暗い影であり、じっと目をこらせば電線のようなものが延びているようなのだが、じつのところ、よく見えない。本当は見えていないのかもしれない。そうだとしても、窓ガラス越しに眺めていたときよりは、家々の屋根と電柱との距離と大きさの感じとを把握しやすくなった。電柱に違いない。私は独り笑った。もう安心してそれを眺めていることができる。そして眺めながら私は、それが十字架であればよかったのにと思った。人みな寝静まった真夜中に忽焉と現れた十字架。見ているのは私だけだ。いわば、私のために出現した十字架だ。なぜ私のために。なにかを伝えようとしているのだろうか。だが、静まりかえった闇夜の空に、十字架はあくまでも沈黙しているではないか。なんという深い沈黙だろう。その沈黙を私はあたかも美しい音楽のように感じる。なんという魅惑だろう。十字架は、私を招いているのではないか。十字架は、私を愛しているのではないか。
 あの十字架のもとへ行こう。いや、そんなことができればだが。私は独り笑った。あれは十字架ではない。電柱である。だが幻想にひととき身を任せるのは私の勝手だ。十字架のもとへ行こう。あの深い闇の奥処へ入り、十字架に拝跪しよう。闇のなかで私の姿は失われ、静けさは私の声を奪ってしまうかもしれない。私は闇そのものに、静けさそのものになってしまうかもしれない。しかしそれは不幸だろうか。十字架は私を愛している。沈黙は美しい音楽に似ている。ならばむしろ私はあの闇に溶け去ってしまいたい。殉教、という言葉をふと思い、私はまた笑った。そんなことができるなら、私はすぐさまこの世のすべてをなげうち、顧みもしないだろう。もしもできるならば。


        *        *        *


 白昼の光のなかで、人々が噂をする。あの家の住人が、失踪したのだ。冬だというのに二階の窓を大きく開けたまま、夜のあいだに行方知れずになっていた。机の上に開いたままのノートがあって、妙なことが書きつけてあった。窓から十字架が見えるというのだ。その十字架のもとへ行きたいのだけれども、その十字架は本当は電柱であると。しかし、ここがじつに妙なのだが、その部屋の窓からは電柱など見えないのである。窓から見える家々の向こうは小さな公園になっていて、園内に電柱はない。そして、ほかに十字架らしく見えるものはないかといえば、まったくないのである。ただ、この件について関わりがありそうに思われるのは、その公園の、もしも十字架が見えたのならばそのあたりであろう白い石畳の上に、ごく微量ではあるが赤い血痕があって、それが失踪者と同じ血液型であるという。