白黒模様

 ごく小さな単純なモチーフの、白いのと黒いのとを交互に、際限なく繰り返しプリントした布で作った服を、私が幼い頃の母はよく着ていた。そのモチーフは本当に小さなものだったから、もしかしたら大人たちの目には、白と黒とが混じり合って、あたかも灰色の無地の布であるかのように見えていたかもしれない。幼い頃の私は、母がその服を着ているときにはいつも、その布地を飽きもせずまじまじと眺めていたものだった。そうして眺めていると、白と黒とがふいに反転する瞬間が、あるような気がしてならなかった。ことに自分がまばたきをした瞬間に。
 そしてその頃の私の考えでは、その瞬間の前と後とでは、私は異なる世界にいるのだった。ほとんど同じ世界だけれども、ごくわずかに、たとえば母の服地の白と黒とが反転しているといった微細な点においてたしかに違う。そして、そんな微細な違いであっても、違う点があるという以上、じつは世界それ自体が違っているのである。
 たとえば母は、それまでの母とそっくりに見えるけれども、それまでの母ではない。まばたきの前と後とで、私と母との会話はとぎれなく続いており、つじつまの合わない部分は何もないにもかかわらず、それは単に、前の世界の母となめらかに継ぎ合わされる性質を、たまたま彼女が有しているという以上のことを意味しない。新しい世界の母が今までと変わらず私を愛しているとしても、それは単に、私を愛しているという性質を彼女が有しているというだけのことで、そのことは前の世界の彼女と今の彼女とが同一の存在であるということを、いささかも保証しない。
 そのような考えは、大人になった私には、ずいぶん寂しい考えのように思われる。もしも現在の私が、ある瞬間に、これまでとそっくりだけれども違う世界に移ってしまって、私と親しいすべての人々が、そっくりだけれども違う人々になってしまったら、たとえ彼らがそれまでの世界におけるのと同じように親しく接してくれるとしても、私は孤独であるに違いない。だが幼い頃の私を思い返してみると、当時の私はそれを寂しいとは感じず、ただ不思議なことであるとだけ感じていたようだ。
 おそらく当時の私にとって、母は、またすべての人々は、それぞれが異なる思考と感情を持つところの他者というより、あたかも太陽が光を、雲が雨粒を私にもたらすように、私に対して、優しさであったり怒りであったり、快であったり不快であったりを、折々にもたらすところの、現象と感じられていたのではないか。私はきっと、太陽や雲を眺めるようにして人々を眺めていた。成長してからのような他者との関係性は、当時はまだなかった。
 いや、現在の私もまた、たとえば寝起きであるとか、ぼんやりと白昼夢にふけっているようなときには、そんなふうに周囲の人々を眺めているときが、なくはない。そんなときには、眠りの世界と目覚めの世界とを行き来するように、あるいは現実の世界と白昼夢の世界とを行き来するように、今の世界とそっくりな別の世界へ移ることもまた、たしかに不思議なことではあるけれども、そんなこともあるものかなという程度のことで、さほど抵抗を感じることなしに受け入れてしまえそうな気もする。