懐旧

 久しぶりだね、どうしてる。そう私は過去の私自身に呼びかける。遠い昔の、懐かしい風景のなかの私に。当時の私は、いつもどことなく具合が悪く、なにがなし満たされず、不幸せな気分で暮らしていたものだった。にもかかわらず今になって思い出されるものは、明るく美しいものばかりだ。不幸せすらが甘美なものとして思い出されるほどだ。そう語れば、当時の私はきっと立腹するのに違いない。過去は常に美化される。まったく、そうに違いない。だがそれにしても、遠い昔の私よ、お前のまわりにはそんなにも美しい森が広がっているではないか。木々の梢はまばゆい陽光にきらめいているではないか。そしてまた、悠々と流れる川のほとりに、古い大きな時計台がそびえ、静かに時を刻んでいるではないか。その夕暮れの鐘の音を、私はもう一度でいいから聞きたいのだ。やがて取り壊されてしまった時計台の鐘の音を。私はあの日々を思い出すたびに、あの木々の幹を抱きしめ、あの川べりの石畳にひれ伏したくさえなるのである。
 そこで私はまぶたを閉ざし、思い出のなかで、過去の私自身になりかわり、懐かしい日々を生きなおす。あの頃の私のまわりに当たり前にあったもの、当時はそれらに目をとめることもあれば、とめなかったこともある、それらのものをすべて愛しなおし、慈しみつくそうと思う。しかしそれらは所詮、過ぎ去ったものだ。美しい幽霊のようなものだ。抱きしめようとするほどに、私の腕から逃れ去る。
 そのとき、ふと、私は私に呼びかける遠い声を聞く。私自身の声、しかし未来の私からの声である。その声は語る、久しぶりだね、どうしてる。お前の暮らしている日々が私には懐かしく、愛おしくてしかたがない、と。それを聞いた今の私は、当惑せずにはいられない。いつもどことなく具合が悪く、なにがなし満たされず、不幸せな気分で暮らしている私の日々の、どこが愛おしいというのか?
 とはいえ、いつの日にかそのように思い出される日もくるのだろうと、理解できないわけではない。私は私のまわりを見まわす。こんな日々のなかにも、ささやかではあれ、なにか美しいものはないだろうか。もしもそれが見つかれば、今ここにそれが確かに存在しているうちに、愛おしみ、慈しむことだ……。
 それにしても未来の私は、未来のどの時点から私に呼びかけたのだろう。今はまだ思いもよらない不運に打ちひしがれた私なのだろうか、それとも、何事もなく穏やかに年老いた私だろうか。あるいは死を目前にした私、あるいは死の向こう側?