彼についての試論

 彼は来る。しかし彼はそこにはいない。彼は形姿を持たない。彼を見ることはできない。しかし彼は来る。来ている。そこに、と指し示した時点ですでに彼はそこにいない。しかし彼が来ていることは分かる。私の眼に映るのではなく、私の心に、じかに。
 私の眼に映るものは、ただ真夜中の空と、暗い森だけである。風が木々の梢を揺らし、空を吹き抜ける。私は空を見上げて、そこに彼がいる、と思う。だが、いないのだ。私が見上げたときにはすでにいないのだ。だが彼はいる、私の意識がそこと指し示す直前まで、つまり、そこと意識する直前の、ごく微細な感覚が私のうちに発生したばかりの時点においては、彼はそこにいたのに違いない。こうして彼と私とは永遠にすれ違うわけだが、そう思っているのは私のほうだけかもしれない。すなわち、彼のほうは私がどこにいるのかを常に把握しているのかもしれない。そうでなければ、なぜ過去から現在にいたるまで、私がどこでどのように暮らしていようとも、折々に、また不意に、彼は私のもとを訪れることができるのだろう。
 とはいえ私が私の眼でもって彼をとらえようとして、むなしい試みを繰り返すように、彼が彼の眼でもって私をとらえているなどとは、私は思わない。彼は形姿をもたない。すなわち彼は眼をもたない。いや、そもそも彼は形姿をもたないのであるから、彼と彼でないものとの境界を定めることができない。したがって彼というものは成り立たない。すなわち彼はすべてである。彼は世界である。彼は自由に私の内部を出入りするだろう。ゆえに彼は私である。ゆえに私は彼である。彼の感覚、彼の思考、彼の記憶は私のものである。
 彼はそこに、と指し示しさえしなければ、彼は常に遍在し、私とともに、私の内部にあるのではないかと考えられる。にもかかわらず私は時折、私の外部に、たとえば真夜中の空に、森を吹き渡る風のうちに、彼が訪れているように感じる。そして私の内部には常に彼が感じられるわけではなく、むしろそれは稀なことであり、たいていはこの私という意識に占有され、かつその意識は往々にして、孤独感、空虚さの感覚を伴うものである。
 形姿を持たない彼は、もしかすると世界全体を覆い、世界全体に溢れ、世界全体の内部を流動する、一切のものを内側から形成する、大いなる生命のようなもの、あるいはその大いなるもののうちの、境界を明確に定められない一部分なのかもしれないと思う。そうであるならば多少は説明しやすくなるということなのだが、つまり、私の外部に彼の訪れが感じられるとき、私は彼を、眼に見えない力の渦のように感じるのである。その力それ自体としては、さしあたり木の葉一枚を揺らしさえしないが、木の葉のうちに、また木の葉を揺らす風のうちに、暗い夜空に、万象に、ある種の力がみなぎり、その力は脈打ち、息づき、私のまわりに押し寄せて渦を巻き、私はその渦を不可視の光の渦のように、つまり光に似た印象をじかに心に与えるものの渦のように感じ、にもかかわらず私は反射的にそれを眼でもってとらえようとし、私の外部の空間を探り、そして何も見出すことがないのである。
 しかもなお、彼の感覚、彼の思考、彼の記憶は私のものである。そうでありうる。しかし彼は時間の感覚というものを持っているのだろうか。過去の私と現在の私とを分かつものを彼は持っているのだろうか。少なくとも私は、彼の訪れに伴い、時間というものの輪郭があいまいになり、ほとんど溶解してゆくのを感じる。夜空は無限の過去へと開かれる。私は過去の私、幼年以来のいくつもの時点の私と、それらの私をとりまいていた光景を唐突にありありと思い出すのだが、それらはおそらく、かつて彼が訪れたときの記憶なのだろう。それらの過去のすべてが、あたかも今この瞬間に起こっているのことのように感じられる。さらにまた私が生まれるより前の、限りない過去からの記憶がよみがえる。もちろん、それは私の記憶ではないのだから、私が思い出せるはずもないのである。じつのところ何を思い出せるというわけでもないのだが、にもかかわらず、それを記憶であると感じるのはなぜだろう。その記憶は私の記憶ではなく、もしもそういうものがあるならば、世界の記憶といったものなのだろうが、このことは、私の意識と世界それ自体の意識がどこかでつながっていることを示しているのではないか。そして世界の記憶とは、すなわち彼の記憶、あるいは少なくとも彼と共有されている記憶であるような気がする。
 とはいえ彼の特質である、絶え間なく流動し、そこと指し示されることなく逃れ去る、あの驚くべき敏速さを思うと、彼はむしろ今この瞬間にのみ徹底的に集中しているのではないかという気もする。無限の過去からの記憶などというものは、彼のような軽やかなものにとって、足枷にほかならないのではないか。だが、そのように現在のこの瞬間に集中しきっているものに、はたして物事を思考することができるだろうか。むしろ、彼は思考しない。彼には記憶がない。彼は時間の感覚を持たない。そのようにとらえるほうが実際の彼のありかたに近いようでもある。それは、彼の訪れのときに、無限の過去へ開かれるかに思われる私の意識、過去のいくつもの光景が今ここで同時に展開するかのような感覚の、昂揚の一方で、今この瞬間に私を巻き込む光の渦の輝かしさに比べると、相対的に、それらすべての過去が値打ちを失っていくようでもあるからで、その輝かしさがすなわち彼であるならば、彼にとって過去は価値を持たないのではないかと思われるのだ。だが、より真実に近いと思われるのは、おそらくは私の意識よりも彼の意識があまりにも大きく、私には彼の意識の部分、部分を察することしかできないという可能性である。すなわち実際には、彼は過去であり、無限の過去であり、かつ瞬間であり、瞬間への徹底した集中であって、何ら思考せず、しかも私の思考をはるかに超えたやりかたで、無限の時のなかで思考する。
 彼の訪れに伴って私の内部に生まれる感覚から、彼がいかなるものであるかを察することができるのは、彼と私が別々のものではないという考えに基づいているが、それゆえに、夜風が木々の梢を揺らし、空を吹き抜けるとき、その空を見上げる私は、そこに私自身がいるように思う。いるはずがないのだが、にもかかわらず私は、森の木々の高みの梢を吹き抜けてゆく恍惚を知っており、そのような高みからの光景を知っている。もし私がそのような私であったことがないのなら、なぜ私はそれを知っているのだろう。ただの空想とみなすにはあまりに生々しく、かつ意図して思い描いたわけでもなく、あらかじめ私の内部に存在していたそれは、たしかに私の経験ではないのだろうか。過去にそのような経験をしていたのか。たとえば生まれる前に私はそのようなものであったのだろうか。だが、私の知っているその恍惚は、正確に言えば、今この時点において私が見上げている梢を吹き抜ける恍惚である。してみると私は、今この時点においてこの私でありながら、同時にまた梢を吹き抜けるものとしてある。私は世界を覆い、世界に溢れ、世界の内を流動する、一切のものを内側から形成するもの、あるいはそのうちの境界を明確に定められない一部分であるのかもしれない。私はあたかも、地上の特定の地点に存在し、確固とした境界を持ち、私は私であるという自覚を有しているものであるかのようでいて、じつはそのような存在ではないのかもしれない。私は必ずしも私ではない。私は特定の形姿を持たない。