黄金の矢

 私の生まれる少し前のことだ。私はひとりの若者の隣に立っていた。私と彼とは、ともに雲の彼方を眺めていた。とはいえ私たちが立っていた場所が、すでに雲の上だったのである。雲は私たちの足もとに広がり、私たちのまわりに漂い、雲の下にはまた雲が、幾重とも知れず重なっていた。雲の上には輝く空が見えたが、雲のはるか下にあるはずの大地は、まったく見えなかった。
 若者は非常に美しかった。肌は透きとおるように白く、髪は豊かな黄金の巻き毛であった。そして微笑みながら私を見た。そのときの私が何歳くらいであったか、分からないのだが、幼い子供でなかったかと思う。というのも、そのときの私は、ごく愚かで、自分の考えというものを持たず、しかし素直で、今よりもはるかに澄んだ心持ちであったような気がするからである。彼の微笑みを私はうっとりと見上げた。彼のほうが私よりもはるかに背が高く、そのことからも、やはり私は幼い子供であったと考えるのが自然であると思う。
 若者は「見ていてごらん」と言った。そして、背負っていた矢筒から黄金の矢を一本引き抜き、もう片方の手にたずさえていた弓につがえると、顔をまっすぐに雲の彼方へと向けた。彼の見ている方を私も見た。はるかに広がる雲の海が、輝く空と接するあたり。彼はたくましい腕で弓を引きしぼり、矢を放った。矢は私たちの見つめているところへ向かって飛び、黄金の光そのものになって、彼方の光に溶けた。
 ……ずっと後になって、つまり私が生まれてからかなりの年月が経ってから気がついたのだが、彼は愛の神だったのだ、昔の神話が語るところの。彼の矢は、まさしく愛の矢であった。神話の語るとおり、この神はその矢を使って、哀れな彼の犠牲者たちに恋の苦しみを与えるのだ。ところが私の見ている前で、彼は下界へ向かってその矢を射かけはしなかった。ひたすらに彼方の光へと飛んでいった、その先は、どこへ行きついたかも分からない。行きついた先は、人間には永遠に知ることのできないところなのかもしれない。
 その矢は、私が生まれる前に、そのようにしてあらかじめ定められた、私の宿命の矢であった。私の愛の対象は、その矢の行方とともにあるのに違いない。神は私のための矢を、地上の人間に向かって射ることをしなかった。それで子供が大人になりかける年頃に、まわりの子供たちがあれこれと恋の話をはじめる輪のなかに、私ひとり、うまく入っていけなかったというわけだ。私ひとり、空の彼方を眺めていた。なるほど地上にも魅力的な人々はいる。けれども私の憧れは、どこか遠いところにばかり向けられていた。空の彼方、幾重とも知れず重なる雲の向こうに、なぜ自分だけがそのようであるのか分からぬままに、対象のない憧れに苦しく胸を焦がしていた。