医者たち

 当時その大きな古い家はまだそこにあって、祖母が一人で暮らしていた。毎年、盆と正月には必ず、少女は両親に連れられてその家に泊まりにいった。しかし小学校の三年生のときに祖母はこの世を去り、それから一度も行かないまま、その家は取り壊されてしまったので、少女の記憶はぼんやりしたものでしかない。
 祖母の夫である祖父の存命中には、その家の玄関と応接間、およびそのまわりのいくつかの部屋が、病院として使われていた。祖父はその田舎町では名の知れた医者であった。玄関は患者たちの出入りする玄関で、応接間は患者たちの待合室、その隣は診察室で、さらにいくつかの部屋は入院患者用の病室だった。少女が知っている頃には、すでに普通の住宅らしく改装されていたため、それらが病院であったことは、いくつかの痕跡とともに説明されなければ分からなかった。ただし診察室だけは別で、ドアにはいつも鍵がかかっていたが、室内はかつてのままだった。
 少女が泊まりにいくようになる二十年ほど前に、祖父は亡くなっており、つまり診察室の時間は二十年ほど止まっていた。寡婦となった祖母は、世の中から忘れられたような暮らしぶりだったが、診察室を昔のままにしているのは、思い出にしがみついているからというわけでもない様子だった。夫の死後しばらくは、もしかしたら執着する気持ちもあったかもしれないけれども、やがて世の中から彼女が忘れられてゆくように、彼女も診察室のことを忘れていったのではないか。ドアの鍵が開くのは、掃除をするときだけで、その掃除ぶりはほかのところを掃除するときとなにも変わらず、単なる日常仕事のようだった。掃除が終わると鍵をかけるのも、長年の習慣からそうしているらしかった。少女が大きくなってから思い出したときに、そのように思えたわけだが、本当は祖母には祖母なりの思いがあったのかもしれない、という気もした。じつのところ彼女は祖母の顔立ちさえはっきりとは覚えていないのである。
 その家に泊まっているときにドアの鍵が開かれたのは、彼女の覚えているかぎりでは、五、六回ぐらいしかなかった。泊まりにいくといつも一週間ほどは滞在していたので、診察室の掃除は毎日ではなかったようだ。箒を持った祖母について診察室に入ると、空気が埃っぽく、それは窓を開けたぐらいでは変わらなかった。埃っぽい空気のなかに、さらに薬品めいた匂いを感じることがあったのは、病院だった頃の匂いがまだ染みついていたのだろうか。消毒液などはとうに揮発していたはずで、祖母が掃除に使っていたとも思えないのだが、にもかかわらず少女は消毒臭のようなものを嗅ぎとり、そのために真夏でも空気が冷たく感じられた。もちろん気のせいだったのかもしれない。ほかにも彼女は得体のしれない異臭、なにかは分からないが、妙に不吉な感じのする臭いを嗅いだ気がし、それをいわゆる死臭というものと思いなして、ぼんやりと怖れていた。
 窓のない側の壁には大きな書棚があり、古い医学書が並んでいた。誰も読まなくなり、埃にまみれ、背表紙は白っぽく退色し、あるいは汚い茶色になって、ぼろぼろと朽ちはじめているものもあった。背表紙に記された書名には、病名や、さまざまな臓器の名前などが含まれていて、それらはもちろんあまり気分のよいものではなかった。しかしそれ以上に、背表紙に用いられている活字の古さ、幼い彼女には見慣れないものである字体の印象が、いっそう気味悪く感じられた。太すぎるゴシック体、細すぎる明朝体、縦に長すぎる、あるいは横に長すぎるように感じられる文字、それらがあたかも、書名そのものが何らかの病に感染しているようで、得体の知れないその病がこちらに感染しそうな気さえして、ほとんど正視に耐えない背表紙もいくつかあった。
 かつて薬品や医療器具を納めていたものと思われる、ガラス戸のはまった大きな戸棚もあったが、ほとんど何も入っていなかった。わずかに数本の遮光瓶が残っていたものの、おそらく空瓶だったのであろう。とはいえ、そのあたりは薄暗いうえに、瓶の表面をうっすらと埃が覆っていて、中身は見えない。ラベルに記されている文字は手書きで、かすれてしまって判読しがたく、しかも外国語で書いてある。変なものが入っているのでなければいいがと少女は怖れた。医療器具のうちで、まだ診察室に残っていたものは顕微鏡ぐらいであり、これは祖父を偲ぶために残されたのだろう。部屋の中央の机の上に、ほかに置かれているものは何もなく、ただ顕微鏡だけがぽつりとあった。
 机の向こうの壁の高いところに祖父の遺影が飾られていた。あきらかに集団写真から切り抜いて引き伸ばしたものであった。もっとよい写真はあっただろうに、なぜそんなものを使っていたのか分からない。背景はただ白く、そこに祖父の胸から上の白黒写真が、いかにも貼りつけられたといったふうにみえた。引き伸ばしたせいで、ぼんやりとして、祖父の顔立ちをおおまかにしか伝えていなかった。眼鏡をかけており、髪は薄く、口髭が生えている。そして微笑しているのだが、ぼんやりとした微笑であり、微笑しているという以上の細かな表情を見てとることは困難だった。そこに親しみを感ずることなど、幼い彼女には無理だった。怖い写真であった。それは死者の顔であり、もっと言えば、死そのものの顔であった。
 そんなわけで、少女にとっては近寄りたくない場所であったはずだ。にもかかわらず、祖母が箒を持ってそちらのほうへ歩いてゆくのに出くわすと、必ずついていった。そして長い廊下を一緒にしばらく歩いて、結局その日の掃除が別の部屋であったことを見届けると、がっかりして引き返すのだった。恐ろしいにもかかわらず、不思議な憧れをも抱いていた。診察室に入るといつでも、太陽の光とも電灯の光とも違う、神秘的な光を彼女は感じた。あくまでも光の感じ、光の気配であって、特定の光源があったわけではない。感じや気配にすぎなかったにもかかわらず、それは彼女の心に、むしろ太陽や電灯よりも強く感じられて、ときに目まいをおぼえるほどだった。
 その家に滞在していたある夏の夜、みなが寝静まってから、少女は寝床のなかで目を覚ました。横たわったままで暗い天井を見上げながら、真夜中の診察室のことを想像して非常に怖くなった。あの不気味な文字やら瓶やら写真やらが、寝床のまわりの暗がりに次々と姿をあらわすように思われた。しかもまた、次々とあらわれるそれらが、彼女をしきりに診察室へ招いているようでもあった。さらには、その招きに魅力を感じている彼女自身もいたのである。彼女は震えながらも寝床から起き上がり、真っ暗な廊下を診察室のほうへ手探りで歩き出した。
 闇の向こうに一点のかすかな光があった。それは診察室からの光であるのに違いない。近づいてみると、たしかにその光は診察室のドアの鍵穴から漏れているのであった。とはいえ本当にかすかな光であり、光の感じ、気配にすぎないのではないかとも思えた。おそるおそる鍵穴から室内をのぞいてみた。何も見えない。とはいえ完全な暗闇でもない。ぼんやりとした薄明かりが一面に広がっており、その薄明かりのほかに何も見えない。窓も机も棚もなく、ただぼんやりと明るい。そんなことがあるものだろうか。少女はおびえながら、なおもしばらくそのままでいると、やがて光が強くなってきたようだった。光そのものが強くなってきたというより、薄明かりに目が慣れてきて、より明るく感じられるようになってきたのではないかという気もした。
 光のなかに、ようやく窓や机や棚などが姿をあらわしはじめた。しかしそれらは、それまで彼女の知っていたものと、たしかに同じものではあるが、すべてが新しく、いきいきとした生活の感じがあった。書棚には色とりどりの美しい背表紙がよく手入れされた様子で並び、戸棚にはつややかな光沢のある薬瓶がたくさん収まっていた。部屋の中央の机の上には数冊のファイルと医学雑誌がブックスタンドに立てられ、顕微鏡は隅のほうへ移されていた。
 光はやわらかな乳白色であった。なごやかに語り合う者たちの声が聞こえてきた。机のまわりにいくつかの見慣れない椅子が置かれていた。来客用らしい、しゃれた、ゆったりとした椅子であった。よく似た椅子を、そういえば納屋で見たことがあったと彼女は思い出した。しかし納屋のそれは、すっかり埃をかぶっていて、こんなにきれいではなかった。そのときには椅子のデザインを古めかしく感じたものだが、同じデザインらしいのに、今は彼女にも好ましくみえる。昔ふうであることは間違いないが、それがかえって面白く感じられるのだ。ふと書棚を見れば、背表紙の文字もさほど怖くはない。まったく怖くないわけではないが、いかにも古書らしい様子だったときとは違い、それらの書物を読んでいる人々が今でも世の中にそれなりにいそうで、そのことが怖さをやわらげている。それに、書棚の本が少し増えたような印象があって、どうやら最近になって出版されたものも加わっているようなのだ。彼女は当時まだ子供向けの本ばかり読んでいる年齢だったが、それでも本屋の店先で平積みになっているのを見かけた気がする、一般向けの啓蒙書のたぐいが何冊か彼女の目に入った。
 見慣れない椅子は三脚あり、それぞれに知的な風貌の中年男たちが、くつろいださまで座っている。そして部屋の中央の医者の椅子に座っているのは、ほかならぬ祖父その人であった。眼鏡をかけており、髪は薄く、口髭が生えている。しかし遺影とは違って、はつらつたる生気に満ち、精悍でさえある。ほかの男たちと同じ働き盛りの年齢らしい、血色のよい顔、堂々たる体つき。目つきは鋭いとともに優しい。ほかの男たちへと向けている微笑は、いかにも陽気であり、満足げである。それは少女を安心させるに充分であった。祖父の背後の壁にはあいかわらず遺影がかかっている。その写真と、祖父の様子があまりに異なることに、彼女も微笑せずにいられなかった。
 中年男の一人がしみじみとした口調で言った。
「こうして四人揃う機会もなかなかないが、会ってみれば、みんな昔と少しも変わらんね」
すると隣の椅子の男がうなずいて言った。
「みんな忙しくてね。しかし忙しいといっても、それぞれに天職といえる仕事をずっと続けているんだから、老け込むわけがない」
さらに一人の男がそれに対して言った。
「たしかに生きている頃はそうだったが、死んでからも四人ともその調子とは驚きさ」
そこで祖父が言った。
「いやまったく、こんなに忙しいとは想像していなかったな。僕は正直、死んだらすべて終わりだとばかり思っていたんだ」
男たちはそれぞれに、いや本当に、僕もそうだ、などと言いながら笑った。祖父も笑いながらさらに言葉を継いだ。
「仮に終わりではないとしても、天国というのはおそろしく退屈なところに違いないと、根拠もく想像していた。そんなところに行くぐらいなら、すっきり消え失せるほうがましだと本気で思っていたし、そういう考えを公言してもいた」
「たしかに、そうだった」
「ところが諸君も痛感しておられるとおり、天国というのはじつに多忙な場所で……」
そう言いながら肩をすくめて、いやはや、という表情をしてみせる祖父の様子が愉快で、男たちはまた笑った。少女もあやうく声を立てて笑うところだった。そして、緊張がゆるんだために、彼女はにわかに眠くなってきた。さきほどは恐怖のために冷たくなっていた手足が、快く温まり、なごやかな笑い声に包まれて、まるで祖父その人の腕に抱かれているようであった。
 そんなわけであるから、これより後のことは、はたして現実であったのか夢であったのか分からない。現実であったとしても、途中でついに意識がなくなり、目がさめたときには寝床にいた。どうやって寝床に戻ってきたのか分からない。自分で戻ってきたのか、診察室の外で眠っていたのを誰かが連れ戻してくれたのか、記憶がない。もちろん、すべてが夢であって、寝床から出てさえいなかったのかもしれないが、ずっと後になって思い出してみても、すべてが夢というわけでもないような気がした。
 祖父は友人たちに、さらにこんなふうなことを語っていたようだ。ただし少女はすでに眠くてならなかったし、そのうえ当時の彼女には難しすぎる話だったので、あとで何度となくこのことを思い出すうちに、知らず知らず、余計なものをあれこれと付け足してしまったようである。どの部分が付け足しであるのか、もはや彼女にもよく分からない。ただ漠然と、すべてが空想というわけでもないだろうと信じているのみである。
「僕も諸君と同様、生きていた頃と同じ仕事を続けているわけだが、完全に同じというわけではない。しかしそれは単なる変化というのでもなく、むしろ、深化だ。深化であり、また、拡大だ。これについては諸君も僕と同じような感覚を共有していると思うのだが、生きていた頃に比べて、われわれの能力、いわゆる霊的能力といったものだが、これが飛躍的に高まった。世界に対するわれわれの視野は確実に広がり、理解は深まった」
「たしかにそうだ。僕は医学については門外漢だが、それでも今では、霊魂のなかにも風邪をひくものがあると知っている。じつに驚くべきことだ」
と、友人の一人が冗談めかして言った。祖父は笑って、また話を続けた。
「最も重要なことは、霊魂の病気を治すための研究は、生きている人間を治すための研究とも関わりがあるということだ。最も根本的なところで関わりがある。現在の僕の研究は、天国でしか通用しないものではなく、生きている人間のためにも役に立つ。いつか再び人間に生まれる機会があれば、僕はどうにかして、こちらでの研究成果をあちらに持ち込めないかと考えているんだ」
友人の一人が膝を打って、
「それは素晴らしいね」
と言った。しかし祖父はいくらか憂鬱そうな顔をして、
「ところがまた、どこの世界にも頭の固いのはいるものさ。生きている人間の病気には、その人間を謙虚にしたり、思慮深くさせたりする働きがあるものだから、どうしても必要なのだと主張する者たちが、天国には結構いる。だが僕は思うのだが、病気という、罹った当人のみならず周囲の人々も苦しむ、痛ましい方法によらないで、霊的成長を遂げることはできないものだろうか。健康であることの喜びのなかで成長していくことはできないものか」
「人情家の君らしい考えだね。それが可能なら、ぜひそうあって欲しいと僕も思う」
友人のその返事を聞いて、祖父はうなずき、さらに話を続けた。
「たとえ病気をなくすことは難しくても、もし彼らの主張が真実ならば、謙虚さなり、思慮深さなり、またさまざまの霊的成長を遂げるための手助けをすることによって、より速やかに患者たちは癒されてゆくはずだ。しかしここで、そもそも霊的成長とは何ぞやと僕は考える。言うまでもなく、これは非常に難しい問題だ。これを安易に捉えてしまうと、病気にかこつけて患者を侮辱することになりかねない」
友人の一人で腕組みをしながら聞いていた者が、
「それは君、せっかく天国にいるのだから、聖なる方々に尋ねてみればいい」
と言った。祖父は、
「もちろんさ」
と答えつつも首を横に振った。
「もちろん、尋ねてまわってはいるが、僕ごときが容易に理解できるものではないのだ。だって君、生きている頃に多少かじり読みした宗教書、つまり生きている者たちの限られた視野のなかで書かれた説明、あれでさえなかなか理解しがたかったろう」
「いや、生きている頃の僕にはさっぱり分からなかった」
「僕もだ」
彼らはまた笑った。そして祖父は笑いながらも、たしかに真剣なまなざしで、こういうふうなことを語っていたと彼女は思う。
「容易に理解できるものではないが、しかし聖なる方々から教えを直接受けることができる、絶好の機会であることは間違いないのだから、ぜひとも理解したい。そして、生きている者の世界の外に広がる、というより、生きている者の世界を含みつつ広がる霊魂の世界について、可能な限り多くを知りたい。聖なる方々の教えは、果てしない霊的世界のいかなる場所においても通用する法則であるはずだ。ならば、それを会得すれば、いかなる場所においても、病める者たちのために何らかの手助けができるだろう。人間たちの世界においても、動物たち植物たちの世界においても、妖精たちの世界においても、あるいは地獄であってもね。そんなわけで、僕は本当にたくさんのことを学ばなくてはならない。まったく、なんという忙しさだろう。学ぶべきことには限りがないのだ。というのは、すべての霊魂にとって、すなわち僕自身にとってもだが、霊的成長というのは限りがないのだから」