小舟

 机の上に幾何の問題集は開いてあるものの、先刻から少しも進まない。嫌いな教科というわけでもないのだが、解く気力がわいてこない。少年はうんざりして立ち上がり、窓を開けた。その部屋は海のほとりの家の二階で、開いた窓からは真夜中の浜辺と海とが見える。空はおおかた雲に覆われ、雲のすきまから多少の星は見えるけれども、月は見えない。少年はしばらく窓枠に寄りかかって立ち、景色を眺めていた。
 今夜は家族はいない。また、この家は彼の家ではない。家族と一緒に祖父母の家へ来ているのだが、家族と祖父母らは連れ立って別の親戚の家へ行き、今夜はそちらで泊まる。彼だけは受験生だから勉強するといって残った。家族らはそれを信じたが、じつはそれは口実で、本当はただ、一人になりたかっただけである。
 古い大きな家である。問題集を開いてある机にしても、紫檀造りの立派なものだ。亡き大叔父が若い頃にこの机で勉強したとかで、その大叔父というのはたいそう優秀な人だったというのだけれども、少年は彼の顔も知らない。彼の優秀さにあやかって頑張りたいものだとも思いはするが、彼に比べて自分は何と情けないことかと自嘲的にもなる。気持ちが揺れ動いて勉強に集中できない。そもそも、こんな立派すぎる机では集中できるはずがない、と少年は考えるが、しかし自宅の机でもまともに集中できたためしがない、近ごろの彼である。
 何か悩みごとがあるというわけではない。ただ彼をとりまく一切のことどもについて、残らず一切について、漠然と苛立っていた。何に対して怒っているわけでもなしに怒りを覚えていた。対象を特定できない怒りは、ときに家族に、ときに教師たちに、ときに友人たちに向けられたが、しばしば彼自身にも向けられることがあり、そして結局のところ、それを解消する術を見出すことができなかった。彼はよく絶望したが、何ゆえに絶望しているのかを、誰にも、自分自身にも、うまく説明できなかった。どうして暗い顔をしているのかと周囲から尋ねられると、いよいよ苛立ち、怒りを覚えた。とはいえ彼らを愛していないわけではなかった。決してなかったのだが、それをうまく伝えることができなかった。今はただ、一人になりたかった。
 波の音に耳を傾けているうち、階下の客間から、古い柱時計の音が響いてきた。祖父母の代よりもさらに昔のこの家のことを知っている柱時計である。誰もいない暗い客間で、その重い響きは、少年がまったく知らない、幾人とも知れない昔の人々を目覚めさせるようだった。少し怖かったが、しかしそれらの死者たちも彼の親族であることを思うと、懐かしいようでもあった。
 海は暗かった。少年は、それら昔の人々がこの窓から見たのと同じ海を、自分が見ていることを思った。世代は移り変わったが、海はおそらく何も変わらないだろう。自分のまなざしが吸い込まれてゆく闇の水平線に、吸い込まれていった昔のまなざしがあっただろう。すると、彼らの魂が、その水平線の闇のうちに今なお漂っているような気がするのだった。ふと、溺死した先祖もいるのではないかという考えがひらめき、溺死者の霊が波間に浮遊していることを想像して、怖くなった。しかしそれも彼自身の先祖であるがゆえに、やはり懐かしい。
 彼は次第に、自分と昔の人々とのあいだの時間の隔てが、薄くなり、ほとんど消えてゆくように感じた。暗い海に、死者たちが漂っている。おそらく彼の近しい人々であり、そうでないとしても、海のほとりの小さな町で、近しい人々とつながりのある人々であったように思う。どれほどの昔の人々であるのか、それがはるかな昔であるとしても、もはや少年にとって懐かしさに変わりはない。時間は闇に溶けて消えてしまった。
 窓の下の浜辺から、大声で少年を呼ぶ者があった。
「おい、お前」
少年が見下ろすと、一艘の小舟が岸にあり、そこから一人の男がこちらへ手を振っている。逞しい若者で、裸の上半身の見事な筋肉が、ただ少年の部屋からの光によってだけ、ほのかに照らし出されている。
「お前だ、お前」
若者はそう言って笑った。漁師だろうか。少年のそれまで住んでいた世界では、ついぞ見かけたことのない種類の人間であった。いくぶん粗野ではあるが、そのかわりに少しも気取ったところのない、晴れやかな力強さ。それにくらべると、それまでの自分の世界の住人というのは、自分自身をも含めて、ずいぶんと弱々しく、ひねこびた連中であるように思われ、少し恥ずかしかった。暗がりを見下ろしながら、太陽を見上げているような心持ちで、少年はどう返事をすればいいのか分からず、たじろいで黙っていると、若者はやや呆れた顔をしたようだった。それが少年にはいっそう恥ずかしかった。しかし若者はそんな恥じらいにはまるで構わず、おそらくは気付きさえせず、揚々たる明るさでもって再び声をかけた。
「そんなところに突っ立ってないで、この舟で、一緒に行かないか。別な夜明けの国へ」
「どこへ、ですって」
驚いた少年の喉から思わずそう言葉が出た。
「別な夜明けの国へ、さ」
若者はさも当然のことであるような調子で答えた。
「お前だって、この夜がいずれ明けることぐらいは知っているだろう」
「はい」
「頼りない声だな。まあいい。夜が明けたら、朝が来る。いつもの一日が始まる」
「はい」
「お前は、そんないつもの一日が、好きか」
「嫌いです」
自分でも驚くほどに、きっぱりとした返事が喉をついて出た。若者は笑った。
「だから別な夜明けの国へ行こうというのさ」
それがどのような国であるのか、もちろん少年には知るよしもないが、その国の名前が、そしてそれを語る若者の口調が、彼の胸を明るい光で満たした。ながらく彼のうちで冷たい燃えがらと化していた希望が、その光によって新たな火を点じられた、かのようだった。——だが、すぐさま彼はかぶりを振った。これは夢だ。あるいは、もっと悪い可能性を考えるなら、あの若者は海の魔物か、溺死者の亡霊なのではないか。僕を真夜中の海に引きずり込んで殺すつもりなのではないか?
 若者は彼をせき立てた。
「さあ早く、こっちへ降りてこい。ぐずぐずしている時間はないぞ。水平線からいつもの太陽が昇る前に、その国に辿り着かなくちゃならない。いつもの太陽を出し抜かなきゃならない。今はまだ真っ暗な水平線の、ずっと彼方に、その国はある。暗闇のなかを、このちっぽけな舟で進んでいくんだ。ちょっとした冒険さ。お前は冒険したくはないか」
少年が同意することを確信し、それを待ちかねて、じりじりしている様子だった。少年もまた、すんでのところで同意の返事をするところだったのだが、あやうくそれを飲み込み、じっと黙り込んだ。
「もしかして冒険が怖いのかい。お前、男だろう。はは、情けない奴だな」
そう言われて、少年はきっと若者をにらんだが、すぐに挑発だと気付いて目をそらし、まぶたを固く閉じた。魔物か、死霊かに、さらわれることのないように。しかしまた彼は心の深くで思っていた、そんなにも誘うなら、いっそ、さらってくれればいいのに。そのたくましい体なら、庭木か雨どい伝いにでもここまで登ってきて、有無を言わさず僕を引きずり下ろし、舟に投げ込むことだってできるはずだ。そうなってしまえば僕には抗う術もないし、あれこれ考える必要もなくなって、楽といえば楽だ。でも、分かっている、それきり僕は死ぬのだ。
 まぶたを固く閉じて、少年は、彼をさらいに来る若者の力強い腕を、その腕に流れる血潮の熱さを思った。若者は、闇に輝く光であった。別な夜明けの国のことを、少年は思った。それは少年がまだ今のようでなかった頃、もっと幼かった頃に、信じきって疑いもしなかった明るい未来の日々に、きっと似ているのだと思った。
 かつて抱いていた、さまざまの幼い夢が去来した。何にでもなれるし、何でもできると思っていた。およそ人間には不可能であるはずのことまでをも。幼い彼をとりまく世界は愛に満ちていた。すべての悲しみは、まもなく大きな喜びによって、必ず埋め合わされるはずだった。おとぎ話の単純さと幸福な結末とを、この世のあらゆることどもについて信じていた。日々を過ごすことは、すなわち日ごとに、より良い世界へ近付いてゆくことにほかならなかった。それこそが成長すること、大人になることだと思っていた。
 朝の浜辺に打ち上げられる自分の溺死体を想像した。そうなるならなれと思った。寄せては返しつ、死んだ彼の髪を揺らす波を思うと、むしろ陶然としてくるのだった。彼はまぶたを閉ざしたままで、死者のように、かくりと首を横にかしげて、力なく、頭を窓枠にもたせかけてみた。夜風が髪を揺らして吹いた。彼の夢想のなかで、死骸である彼は、その死骸のうちでかすかに意識を保っていた。もはや思い悩むことなく、ただ恍惚と、おのれを波の動きに委ねていた。——だが、不意に、あの若者が恐ろしい怪物の姿となって、まぶたのうちの世界に現れた。どす黒くふくれあがった体に、朽ちかけた海藻をへばりつかせ、眼窩から抜けかけた目玉で少年を睨み、腐乱した腕をこちらへ伸ばしてきた。だが少年はその腕を避けようとしなかった。したいようにするがいい。僕もまた朽ちてゆく。
 夜もふけて、目を閉じたままの少年は、きっと眠くなってきたのに違いない。薄れゆく意識のなかで、若者はふたたび力強く、光輝に包まれて見え、少年は波に揺られ、その快さのなかで、次第に心は鎮まり、まぶたのうちの幻影は消え、穏やかに暗くなっていった。実際、ほんのしばらくの間、眠っていたのかもしれない。やがて静かな暗闇のなかから、ふと目覚めたばかりのような澄んだ心持ちで、彼は目を開いた。開こうとするでもなく、ただ花が開くような自然さで開いたのである。すると、いつの間にか雲が大きく割れて、満月に近い月が現れ、明るい青い光を海に投げかけていた。