老木

 年老いた大きな木が、節くれだった太い枝を青空にのばしている。私は木の根もとに座り、その枝ぶりを見上げている。木の葉は黒々と茂っているが、枝の先のほうの葉は日の光を透かしてエメラルド色に輝き、風にかすかに揺れている。まわりには誰もいない、静かな林のなかである。この木は、いつの世からここにあるのだろう。それは、遠い遠い昔から。誰も知るまいが——、遠い昔に、この平和な場所でも、戦いがあった。その戦いで命を落とした英雄があり、その英雄が、この木に化身したのである。
 それは美しい若者であった。勇ましく戦い、仲間たちを勝利へと導きながら、みずからは深手を負い、この場で息を引き取った。彼をとりまく人々はいたく嘆いた。すると彼らの目の前で、彼の亡骸が若木に変じたのである。それは彼のように美しい若木であった。
 遠い昔の話である。彼とともに戦った人々もやがて死に絶え、その魂の行方も知れない。戦いのあったことすら忘れられ、偲ぶよすがも消え果てた。私のかたわらに転がっている石は、もしかすると英雄のための祠の、摩滅しきった欠片であるのかもしれない。
 若者の肢体をめぐっていた熱い血潮は、樹液へと変じた。傷つきやすい皮膚は、若木のつややかな樹皮として蘇ったが、それも既にざらざらとして固く、ひび割れ、苔むしている。しなやかな腕は、黒ずんで節くれだち、よじれつつ、空の高くにかかげられている——梢の葉は明るく輝き、高みの風にかすかに揺れている。
 この木自体、おのれの来歴を思い出しもしないだろう。戦いのことも、彼を悼んだ人々のことも。世の中が彼のことを忘れたように、彼もまた世の中のことを忘れ果てた。それで彼が不幸であるようには見えない。かつて人間であったことも忘れ、戦いの勲しも誉れもなく、降りそそぐ陽光のなかで枝葉を広げている、静かな空の高みの幸福。