よじれた顔

 新しい家の窓からは森が見えた。幼い彼女はよく森でひとりで遊んだ。両親の仕事の都合でこの地へ移ってきたのである。少女の生まれた町からははるかに遠く、彼女には、ここで話されている言葉がほとんど分からなかった。両親にさえ理解できないときもある言葉が、幼い彼女に分かるはずもなかった。さいわい彼女はひとりで遊ぶことが苦にならない性質だった。それで、両親がしばしば「この地方の住民はいったいに気性が荒い」と困惑しつつ語っていた、そのことも少女を悩ませることはなかった。
 ある晩、彼女とその家族が夕食を終えてくつろいでいると、突然、激しく罵りあう男女の声が隣家から聞こえてきた。少女は驚いて窓にかけよった。すると、隣家の戸口から男が飛び出してくるのが見えた。男はすぐに立ち止まり、戸口のほうを振り返って、薄笑いを浮かべた。隣家からの光と少女の家からの光とで、その姿がはっきり照らし出されたのである。まずは美男の部類であった。そして美しい衣装に身をつつんだ、伊達男である。ただし片側の頬に、刃物で斬られたものらしい、かなり目立つ傷痕がある。そういう男が、隣家の内からまだ罵声を投げつづけている女のほうへ、狡猾らしい笑みを向けた。すぐに女が飛び出してきた。男につかみかからんばかりの勢いだったが、男はすばやく身をかわし、すこし離れたところで「ハ、ハ!」と声を立てて笑った。女は男を追い、男は逃げ、しばらくは隣家の門前で追いかけあいをしていた。男は本気で逃げるつもりはないようで、その足取りは、女をあざける踊りのようだった。女のわめき声と、男の「ハ、ハ!」「ヘ、ヘ!」という笑い声とが、けたたましい足音とともに近隣に響き渡った。少女はその男を少しばかり好ましく思った。男は魅力的な道化師のようだった。
 また、その女がそんな大声で何を訴えようとしているのか、少女は聞き取ろうとして、うまくできなかった。いくつか聞き取れたような気がする断片的な語を、どうにかつなぎ合わせて、意味らしきものを導き出そうとした。森、森、と聞こえた。それから、夜、夜。さらに何かを禁止しているようだった。行くことを禁止している。行ってはならない。夜に森へ行ってはならない。
 おそらく夜に森へ行くことは、とても危険で、女は止めようとしているのだが、男は言うことをきかない。なぜそんなにも森へ行きたいのかは分からない。たいした危険はないと高をくくっているのかもしれない。危険はないということを、身をもって証明しようとしているのかもしれない。いずれ愚かな冒険心に駆り立てられているのには違いない。……実際、やがて男の姿は光の届かない暗がりに、踊るように入ってゆき、それきり少女の窓からは見えなくなったものの、その足取りの方向からして、どうやら森へ行ったのではないかと少女は思った。
 男に取り残された女は、しばらくその場にしゃがんで大声で泣いていたが、そのうち家に入り、部屋で泣いている声が少女の家にまで届いた。ずいぶん長いこと泣いていたが、少しずつ静かにはなり、ついに聞こえなくなった。両親は苦笑いをし、肩をすくめた。少女は両親に「いまのはなんだったの」と尋ねてみた。彼らは面倒そうに「子供はもう寝なさい」と言った。
 さて数日の後、よく晴れた昼下がりに、少女はひとりで心楽しく森を歩いていた。舗装されていない道は、陽光に乾いて白く輝き、両側に広がる木立ちの暗がりのところどころにも、明るい光がさしていた。ふと、道のすぐ近くの木のありさまに、彼女は目をとめた。その木はすでに枯れているか、あるいはほとんど枯れているようだった。樹皮はこの日ざしの下で、すっかり干からび、ひびわれていた。枝は、少女の手は届かなかったが、もし触れることができれば、たわむことなく簡単に折れてしまいそうだった。乾いた葉が何枚かついてはいたものの、茶色に近く黄ばんでいた。彼女の目は、幹にいくつか開いている洞にとまった。あまり大きくない洞が、三つかたまって開いていた。それがどうも干からびた死骸の頭部の、眼窩と口とに見えるのだ。それぞれの洞が少しずつ歪み、また互いの位置も、眼窩と口とに見立てるには、少しずつずれていたのだが、それがむしろ苦痛によじれた顔のように見えなくもなかった。そこで少女は先日の夜のことを思い出した。制止もきかずに夜の森に入っていった、あの愚かな男のことを。眼窩と口とのあいだ、おおよそ頬とみなされるあたりの樹皮に、ひときわ大きな亀裂があって、それが頬の傷痕であるのに違いない。
 少女は立ちすくんだ。恐怖するとともに、また悲しんだ。少女はあの男のことが嫌いでなかったのである。あれは愛すべき道化であった。子供ながらに、あの男の顔立ちを好ましくも思っていた。これはあまりにも無惨な変わりようである。少女は男を哀れむとともに、彼女のまだよく知らないこの広い世界には、このようなこともあるものかと驚いた。