足あと

 眠いけれども寝つかれず、私はベッドから身を起こし、すぐ近くにある窓のカーテンを少しだけ開いて、外を見た。ホテルの上階から見下ろす、この小さな町は、もう寝静まっている。人影はほとんどなく、走る車もまばらである。車道の信号は点滅を続け、融雪装置のせいで水びたしになっている車道を、赤や黄色の光できらめかせている。ときおり降ってはやむ雪は、今はやんでいる。
 幼い頃にしばらく住んでいた町である。その頃のことはよく覚えていないにもかかわらず、それが幸せな時期であった気がして懐かしく、しばしば訪ねるのである。小さな古い町で、町のなかばは森に覆われ、またいっぽうは湖に面している。昔のものは豊かに残っているが、新しいものはあまり見かけず、私が住んでいた頃からそう変わってはいない。
 ホテルの周辺はいちおう繁華街ということになっているが、大きな町と比べると、ごく寂しいものである。窓からすぐに見下ろせるところに多目的ホールが建っており、その隣は公園である。公園の木立ちから人影がひとつ現れ、ホールの前を歩きだした。公園は、繁華街へ抜ける近道になっているので、深夜だからといって、そこから人が出てくることはそう不審なことではない。
 焦茶色の背広を着た後姿を私は眺めた。同じ色の中折れ帽をかぶっている。今どきそんな帽子をかぶって歩く人は珍しいと思い、この町ならではかと微笑ましく思ったが、それにしても老人ならばともかく、後姿を見るかぎりはさほどの年齢とも思われない。若々しくみえる高齢者が増えたのは、この地でも同じことだろうか。
 やがて男は赤い光の明滅する横断歩道を渡り、向かい側の歩道を、また私に背中を向けて歩き出した。しかし私は驚いた。融雪装置のあるホールの前や車道とは異なり、そちらがわの歩道には、うっすらと雪がつもっている。その雪に、男の足あとが残らない。薄くつもった雪の上を、水にぬれた足で歩けば、あたかも型抜きしたようにくっきりと足あとが残ってよいはずなのに。私のほかに誰かそれを見とがめる者はないものかと、男のまわりを探したが、このとき町を歩いていたのは彼だけであるらしかった。
 やがて彼は曲がり角をまがり、見えなくなった。……ふたたび雪が降りはじめた。残された白い歩道に、さらに雪がつもっていった。私は、そういうこともあるものかな、と思った。あれは幽霊である。だが、さほど怖いとは感じなかった。むしろ、嬉しいようでもあった。この古い町を忘れがたく思う者が、私のほかにもあるのだ。もしかしたらあの幽霊は、私がこの町で暮らしていた幼い日々に、私の近くにいた誰かであったかもしれない。そう思うと暖かな心持ちにさえなった。幽霊がどこへ行ったのか分からないが、どうか、彼に幸福がありますように。私はカーテンを閉じて横になり、毛布にくるまって、子供のように眠った。