埋葬

 懐かしい高校の校舎である。私がいた頃と何も変わっていない。ただ、誰もいない。静まりかえった廊下に、私の足音ばかりが響いている。どの教室にも人影はなく、整然と並んでいるばかりの机の上を、開け放たれたままの窓から、白いカーテンを揺らしつつ昼下がりの風が吹いてゆく。廊下は私の行く手で図書室に突き当たり、そこから折れて階段へ続く。図書室の扉は開いていて、懐かしい、薄暗い埃じみた室内が見える。そこから制服姿の女子生徒が一人きり姿を現し、すぐに階段へと歩き去った。彼女の視線はまったく私のほうには向けられず、私の存在に気がついていなかったようだが、私はその姿に息をのんだ。異様に蒼白な頬をした、まったく表情のない、しかし美しい、その少女はたしかにかつての私自身であったから。
 階段は図書室よりもさらに暗く、私が歩いてきた廊下は窓からの光で明るかったので、階段はほとんど暗闇のようだった。少女は上の階へ行ったのか、下へ行ったのか、分からなかった。これほど静かだというのに、足音も聞こえない。私は、あてもなしに、彼女を探して各階をさまよい歩いた。
 遠くからピアノの音がする。決して巧くないバッハである。だが、そのたどたどしさが私に、かつてその曲を練習していた頃の、夢中であった心持ちをよみがえらせた。私にとってだけ意味深い演奏、これは私が弾いているのに違いない。校舎にいくつかある音楽室のなかから、音をたよりに、そのひとつに辿り着いた。しかし、そのときまでに次第に演奏はとぎれとぎれになってゆき、音楽室の扉を開いたときには、もう音は止んでいた。そこには誰もいなかった。
 私は、あの頃の私が好きだった場所はどこだろうかと考えた。生物実験室の、標本の棚が好きだった。休憩時間に、生徒たちが出ていった後のその部屋で、腹を裂かれたカエルやらネズミやらが、ガラス瓶のなかの黄色い、あるいは赤い液体に浸されて、永遠に静かにしているさまを、私自身ごく静かに、眺めているのが好きだったのだ。それでそこに行ってみると、標本は当時と変わらずにあったが、少女はいなかった。黒板の横には、廊下を通らずにじかに隣の実験準備室に行くドアがある。その部屋は当時、理科教師たちの談話室のようにも使われていた。常に教師たちの誰かがそこにいたのである。私はドアを開いてみたが、誰もいなかった。窓辺にシャーレがひとつ置かれていて、そこに硫酸銅の結晶が、青く、青く、あたかも小さな海のように、日の光を浴びてきらめいていた。あの頃のある日、何かの用事でこの部屋に入った私も、その場所にその結晶を見たのだった。当時は、それが何であるかを知らないまま、珍しさに、それを手に取ろうとして、そばで煙草をふかしていた化学の教師に「おい、それは毒だぞ」と言われて驚いた。小さな海の上に、日の光はかすかに黄色みをおびて、夕暮れが少しずつ近づいてきているようだ。壁の時計を見上げると、もう三時を過ぎている。誰もいない部屋で、その秒針だけが動いている。なめらかに動くのではなく、一秒ごとをまさに刻むように、カチリ、カチリと音をたてて動いている。静けさのなかに、ただその音だけが響いている。その音にひとたび気をとめると、それまでなぜその音が気にならなかったのかが訝しまれるほどの、大きな音である。私は何がなし不安になってきた。
 私は廊下に出た。そして再び図書室に向かった。あの頃の私が最も好きだったのは、図書室ではないか。実際さきほどの彼女は図書室から出てきたのだ。あれからまた図書室に戻ったかもしれない。図書室の扉はまだ開いたままで、入ってみると、埃じみた古書の匂いが懐かしかった。灰色のスチールの書架が並んでいる。その最も奥の片隅の、狭苦しい空間、ほかの生徒たちからはほとんど見えない場所の、床の上にじかに座り込んで、私はよく本を読んでいた。陰気な場所ではあったが、窓をふさいで並べられている書架の隙から、午後になるといくらか光がさしてくるのだった。私はそこへ向かって歩いてゆき、のぞきこんだ。誰もいなかった。赤みをおびはじめた陽光が、その小さな場所に満ちて、ごくゆるやかに舞う埃を照らし出していた。
 私は失望して、校舎の外に出て、やはり人影のない校庭を歩いた。落葉樹の葉がことごとく赤くまた黄色く、枝からおおかた落ちて、地面を覆っているのを目にして、ようやく季節に気がついた。落ち葉の上にいよいよ赤い光が斜めからさし、風は肌寒い。しばらく落ち葉を踏みつつ歩きまわったが、やがて疲れをおぼえ、途方に暮れつつ立ち止まった。そのとき、ふと、聞き覚えのある声を聞いた。
「私をお探しですか。私は、あなたの足の下におります」
私は驚き、足もとを見た。血のように赤い光の中、死んだ葉の降り積もった下に、秋の夕暮れの土は冷たい。そこに私は、探し求めていた私自身の、まったく蒼白な、表情のない、目を閉ざしたきりの美しい少女の顔を見たように思った。私は怖れて数歩退き、そこからその場所をなおも見た。もはや声はない。私はそのままそこに佇み、その場所を見つめているばかりであった。私に何ができよう。ただ、悲しかった。