白い蝶

 夕暮れの薄明かりのなか、私のすぐそばを、白い蝶が一匹飛んでいった。模様も何もない、ただ真っ白い蝶である。翅の脈に沿って細かに裂けた、ぼろぼろの翅をようやく動かして、私の肩ほどの高さを漂うように飛んでいった。そのさまは、どことなく幽霊じみてみえなくもなかった。私は気がかりになって、蝶を追った。歩いて追ってゆけるほどの頼りない飛びかたであった。道は細く、曲がりくねりながら、森に覆われた山のほうへと続いていた。
 森はすでにかなり暗かったが、ぼんやり浮かびあがる蝶の姿をたよりに、私はそのまま歩いていった。しかし道はやがて、森の下草の薮に消えてしまった。蝶は薮の上をゆらゆらと遠ざかる。私は薮をかきわけて追った。蝶の姿がにわかに下降してゆくのが見えたので、私は、もはやよく見えない行く手に、下り坂を想像した。
 そうではなかったのだ。そこは高い崖であった。私はほとんど転落するところで、横から張り出していた木の大枝にあやうく助けられた。崖から大きく身を乗り出した私の眼下には、深い暗闇があり、そこに……八重咲きの白い大輪の花が、銀色に輝くばかりの花が開き、そこへ向かって白い蝶がゆっくりと降りてゆく、まるで舞い落ちてゆくように。
 それは一瞬のことである。ただちに、手当たり次第に木の枝々や草の蔓やにとりすがり、退却しなければ、わずかに足が滑っただけでも転落するのに違いなかった。恐怖にかられつつ、どうにか薮をかきわけ、そこからどうやって元の道に戻り、帰ってきたのかはよく覚えていない。
 とはいえ、ようやく帰ってきた家の、安らかな寝床で目を閉ざすと、崖の底に咲いていた花が、そして白い蝶が、ありありと瞼のうちによみがえる。あんなに恐ろしかったはずであるのに、いまや私は蝶とともに、あの花に向かって、闇の深みへと心愉しく落ちてゆく。