天童華

 もはや生命の尽きかけたようにみえる木が、夜明けとも夕暮れともつかない赤みをおびた空の下に立っている。巨木だが、葉はすでに乏しく、幹にいくつか大きな洞ができて、そこからすでに朽ち始めている。大勢の人々がその木をとりまき、不安そうに見上げている。彼らのまなざしは、枝の一点にそそがれている。そこに花のつぼみがある。巨木がつけた、ただひとつのつぼみである。ひと抱えほどもある大きさのそれは、真紅の、ぽってりとした花びらに包まれて、ふくふくとふくれている。
 彼らの大半がすでに覚えていないことであるが、古老が語るには、昔はこの木にはたくさんの花が咲いたのだ。そして昔から、この木こそが、天空を支えているのだと信じられてきたのだ。年に一度、よく晴れた夜明けに、それらの大きなつぼみが開く。すると、花のなかから一斉に、世にも愛らしい幼児たちが顔を出すのである。一輪に、ひとり。眠そうに目をこすり、あくびをしたりなどしていた幼児たちは、やがて日が高くなるにつれ、背中の小さな翼をふるわし、ひとり、またひとり、青空へと昇ってゆく。彼ら愛らしい仲介者たちが、天をなぐさめ、天と地をとりなしてこそ、太陽は日々変わらぬ光を人間たちに与えてくださるのだと、当時の人々は信じ、高みの光に消えてゆく幼児たちを見送りつつ合掌したものであるという。
 しかしながら、木の寿命も永遠ではない。ある頃から、人々は、その木が少しずつ弱りはじめていることに気がついた。もしもその木が天空の支えであるなら、木が枯れてしまったとき、われわれはどうなるのだろう。彼らのある者は、いたく怖れたが、またある者は、それは迷信にすぎないのだと言いはじめた。そして実際、しばらくは、何も起こりはしなかった。いや、そのようにみえた。人々は気がつかなかったのである。わずかずつ、ごくわずかずつ、しかし確実に太陽の光が弱まり、昼が短くなっていることに。
 あるとき、にわかに多くの人々が気付きはじめた。世界は暗くなりつつある。言い伝えを迷信であると一蹴していた者たちも、不安げなまなざしを木のほうへ向けるようになった。花の季節がめぐってきても、もはやその木はひとつたりとつぼみをつけることがなかった。年ごとに花が減っていることを、気にかける者がめっきり少なくなってしまうほどに、言い伝えはいつしか、多くの人々から背を向けられてしまっていたのだ。信心を保ち続けていた者たちが言うには、もう何年も前から花は咲かなくなっていたと。だが、たとえ多くの人々が信心を保っていたとしても、はたして、樹勢は衰えずにいただろうか。それは寿命ではなかったのか。
 それからさらに年月は過ぎ、往時の光を知る者がわずかになってしまった今や、太陽は地平線から終日ほとんど離れることなく、そのあいだ、空は朝方とも夕方ともつかぬ赤みをおびて、人々の影は地面の上につねに長い。そのような頃であった、朽ちかけた巨木が、ただひとつきりのつぼみをつけたのは。人々が、そこにどれほどの大きな希望を見たことか。その花の一輪によって、われわれは救われるであろう……。あまりにも大きな期待は、むしろ不安に近づいた。誰もほとんど喜ばなかった。咲くのだろうか、本当に咲くのだろうか。一輪の花を咲かせるだけの力を、この老木はまだ保っているのだろうか。怖れおののく幾多のまなざしが、その赤いかたまりにそそがれた。
 つぼみがほころびはじめるのを、彼らは見た。咲くのだ、確かに咲くのだ、われらを祝福する花が。ながらく天空を支え続けた聖木の、身に残った最後の力の結晶が。血のように赤い、厚ぼったい花弁が開いてゆく。幼児の明るい笑い声を、人々は心から期待する……。だが、なにも聞こえてはこない。
 突然、古老のひとりの、枯れた喉からしぼり出される叫び声があった。ほとんど同じ瞬間に、人々はみな、何が起こったのかを理解していた。花のなかに、幼児の姿はあり、かつ、死んでいた。まぶたを閉ざし、蝋のように白い頬をして、蜂蜜色のくるくるとした髪を、風に揺れるがままにしていた。世にも美しい子供であった。古老の叫びを最後に、もはや誰ひとり声をあげる者はなく、ただ死児を見つめるばかりであった、彼らと冷たい大地との上に、静かに夕闇の帳がおりていった。