太陽

 深夜の私の部屋で、私はひとつのことを、考えるともなしに考えていた。あるいは、夢見ていた。いや、夢のほとりにたたずみ、夢にくるぶしまでをひたしつつも、そこにすっかり身を投じてしまうことはためらわれ、そのためらいについて、考えるともなしに考えていた。
 ふと、私の肩に何者かの手が置かれた。私のほかに誰もいないはずの部屋で。私は背後を振り返ることなく、ただ視線だけを肩にやった。その手は、白骨であった。手の主が私に言った。
「そのままでよいのだよ」
あたたかな低い声だった。そして骨しかない彼の手すらも、私の肩にあたたかかった。声はまた言った。
「見捨てられてしまえばよいのだ、世界に」
その言葉は、私が考えていたことへの答えであり、私の望んでいたままの答えでもあった。彼への感謝の言葉を口にしようとして、やめた。すでに見透かされているのだ。私の心はこの人物にとり、透明な水をそそいだ水盤のようで、底までをあきらかに見通せるのだ。そう思うと安らかな気持ちになった。あえて振り返って彼の姿を確かめようともせず、肩にぬくもりを感じながら、そのまま黙ってじっとしていた。快い眠りに沈んでゆくときのような心持ちがした。とはいえ私の目は、私の部屋だけを照らす小さな太陽のような電灯の下で、いっそう冴々と目覚めていた。
 ふと、独りごとめいて、私はつぶやいていた。
「こうして夜ふけまで起きていると、思い出すのです、私が最も不幸であった日々のことを。しかも、たまらなく懐かしく。あの頃にはもう二度と戻りたくないというのに。あんな恐ろしい思いはもう二度としたくないというのに」
彼は黙って聞いていた。彼がそうして心を傾けてくれているということが、私の心にそのまま伝わってきた。私は続けた。彼に伝えようというより(伝えるまでもなく伝わっているに違いないのだ)自分のために、懐かしい歌を口ずさむように。
「日々通い慣れていたはずの建物の廊下が、不意にひえびえとした灰色につつまれ、どこまでも長く、長く伸びて、やがて永遠の闇へと続くもののようで、恐ろしさに立ちすくまずにいられなかったこと。冬空に黒々と広がった裸木の枝が、あるとき巨大な神経叢と化して私の痛覚をにない、枝のあいだを冷たい風が吹き抜けるたびに、私に鋭い痛みを与えたこと。空気にゼリー質のどろりとした手ごたえを感じるようになり、一歩ごとに抵抗をおぼえて歩きにくくてならなかったこと。その頃には人々と交わることがひどく苦しく、誰もいない非常階段で安らぎ、そして非常階段をただ昇っては降りることの無意味な繰り返しに、わずかな気晴らしを得ていたこと。またあるときには、私のまわりに誰かの気配がつきまとい、死ね、死ねとつぶやいているのが聞こえるのにもかかわらず、見回しても誰もおらず、いつに変わらぬ街路のさまが、妙にしらじらと目に映るばかりであったこと。そうした日々が、あんなにも苦しかったのに、いまや、こんなにも美しく思い出されるのはなぜでしょう」
「そうした日々においてこそ、君は君自身であったから」
その答えに私は驚いたが、また納得されもした。しかしまた納得する自分にとまどいもしたのである。
「なぜ、そこで私は私自身であることができたのでしょう。あるいは、私自身であるとはどういうことなのでしょう。考えはじめると、分からなくなります。考えなければ、すんなり受け入れられましょうに。いや、なにも考えずにそれを受け入れたなら、きっと世の中の誰ひとり、私のことを理解できなくなるでしょう。私は世界のなかで孤立するでしょう。でも、もしも私のこうした経験から、人間の心というものについての誰にでも当てはめられる知識を得て、世の中と分かちあうことができれば、私は、人々と私とをふたたびつなぎ合わせることができましょう」
「説明する必要はない」
と、彼は言った。
「世の中の言葉で君を説明する必要はない。世の言葉の外に出たからこそ、君は君自身であったのだ。誰にでも説明できるものであるかぎり、君はほかの誰でもありうる、不特定多数のうちの誰かであって、君自身ではない。知識をもって世の役に立とうとする必要もない。役立つ者でなければつながることのできない世の中であれば、つながる必要はない」
「無用の者であれ、ということですか……」
「無用か有用かなどと判断する必要もない。そうした判断は、世の人々のものだ。好きに判断させておけばよい。気にかける値打ちもない。君はただ、そのままの君であればよい。そのままの君であるときにこそ、まさに君本来の栄光のうちにあるのだということが、分からないか」
私はなおも当惑していた。ただ、当惑しつつ眺めやる室内のさまざまのもの、見慣れ、使い慣れたあらゆるものが、この真夜中に輝く太陽のような灯火のもとに、冴々とした光をおび、はじめて目にするもののように、使いみちも知れぬもののように、ただそこに在る、その不思議な美しさに、ふと心づいた。それは、あの恐ろしい、懐かしい日々に私をとりまいていた景色と、どこか似ていた。私はふるさとに帰ったような幸せな気持ちになった。と同時に、世の中から遠ざかってゆく不安をおぼえた。しかしまた、世に属するすべてのものを失ってでも、この幸福を捨て去りたくないという気がするのだった。
 彼は黙っていたが、私の心の揺らぎをすっかり見通しているのに違いなかった。肩に置かれたままの骸骨の手のぬくもりを感じ、私には見えない背後からそそがれるまなざしに安らぎを感じながら、私はふたたび私のために歌うように、似たような詞がいつまでも繰り返される子守歌のように、つぶやいていた。
「コンクリートの路面に広がる細かな亀裂が私の不吉な運命をさまざまに暗示すること。古い立札の摩滅して読めない文字が世界の終わりをほのめかす暗号であると奇妙に確信されること。鶏頭の花は凶兆であること。この世のすべての死んだ蝶々は私が殺したのであること。空は青く、海も青く、すべてがくまなく照らし出される白昼に、ただ彼方の水平線だけがぼんやりとしてみえる、その水平線に憧れ、あるいは水平線が私を招き、海辺の崖から身を踊らせようという誘惑、きらめく波間への捨身の恍惚……」
とめどもなくつぶやきながら、いよいよ世の中から遠ざかってゆく自分を感じ、ほどなく不安の影は消え失せ、あたかも愉しい旅に出るときのような軽やかな気分になり、そして背後からは、幼い子供に子守歌を歌うような彼の声が聞こえた。
「それでいい、それでいいのだ、ほかの人々と同じ太陽に君が照らされる必要はない」