詩人

 月光が少女を照らしている。ほどなく取り壊される予定の、古い木造の体育館の窓辺である。館内の壁際の、さびた鉄の螺旋梯子を上ったところに、大きな窓がずっと並んでおり、それにそって、窓を開閉するためだけの狭い通路、というより足場といった程度のものが設けられている。その足場の片隅に寄せられたカーテンの陰に彼女は立っている。中学校の付属の体育館なのだが、他の生徒たちはもう家に帰って、灯も消えており、静まりかえった広い空間のなかに、彼女を照らすものは月光のほかにない。彼女は帰りたくないのである。帰る場所がないのだ、とも思っている。
 家はある。家族もある。だが、彼女の顔を見るなり不機嫌になる両親である。父親などは彼女をいきなり殴ることさえある。母親がそれを止めることもない。娘の成績が振るわず、しかも近ごろ反抗的になってきた、という理由らしい。しかし彼女がもっと幼く、もっと彼らの期待にそっていた時分から、彼らには気難しいところがあった。当時から何かしら理由をつけて殴ることのある父親であったし、そもそも、父親と母親との仲も悪かった。口論の絶えることがなく、娘の目の前で父親が母親を折檻することも頻繁にあった。それは少女にとってまったく日常の光景だった。幼い頃にはそうした日常を訝しむこともなかった。近ごろになってにわかに堪えがたくなり、両親のいさかいのさなかに、少女は父親をひたと睨みつけたのである。父親の怒りの矛先はただちに娘に向けかえられた。彼女は顔が腫れあがり、全身に青あざができるまで、殴られ、足蹴にされた。それは春休みであったので、その姿で学校に行かずにはすんだが、何らかの痕跡が残るほどの暴力を受けるのは、決まって長期休暇中のことであった。もしかしたら父親は、家庭で起こっていることが他人に知られないように、そういう時期をあえて選んでいたのかもしれない。もっと幼い頃、小学校の教師に、少女が何気なしに家庭の様子を話したところ、教師は驚いて、ある機会にそのことを両親に問いただした。するとその夜、彼女は父親からひどく折檻されたのである。そうしたことがあったために、もはや彼女は誰にもこうしたことを話さない。いや、もしも話したとしても、教師たちが常に信じてくれるとは限らない。というのも、両親は世の中でそれなりに高い地位にあり、そうした地位にある人々が家族に乱暴をはたらくなどとは、世の中はあまり認めたがらないものだから。
 体育館の窓から見わたされる、中学校の敷地内に、もうほとんど人影はない。校舎のいくつかの窓に灯がともっているが、生徒ではなく教員たちだろう。両親は、彼女の姿を見るなり不機嫌になるにもかかわらず、彼女の帰りが遅れれば、さらに不機嫌になるのである。それは分かっているが、とても帰る気になれない。それでも、もともと体が虚弱でもあり、神経の脆いところもある彼女には、家出をするほどの強さが自分にあるとは思えない。そこで心の内へ向かって逃れ、夢想に遊ぶこと、物語の本を読むことを、幼い頃から慰めにしていたものだった。ところが彼女の両親はごく実務的な性質で、読書といえばたいてい彼らの仕事に必要な本か、あるいは週刊誌の類であった。そして娘のそうした傾向が、また彼らの苛立ちの種にもなるのだった。
 誰もいない景色を眺めることは、寂しかったが、また、慰めでもあった。ほかの生徒たちのことを嫌っているわけではなかったし、嫌われてもいなかったが、彼女は彼らのようには違和感なしに集団に溶け込むことができなかった。あるものを一斉に賛美しては、しばらくすると一斉に酷評する、たとえば流行歌であったり、映画であったり、服装の趣味であったりする、そうした動きをいつも奇妙に感じ、それでも微笑しながら彼らに同意をしてみせる、そのことが苦痛だった。講堂でぞっとするほど教育的な内容の歌を斉唱させられたり、体育の時間におかしな踊りのような体操をさせられたりすることも、ほかの生徒たちは、多少の文句をつけることはあっても、まずはおとなしく従うものだ。しかし彼女はいつも強い違和感をおぼえていた。屈辱的だと思っていたのだが、周囲の誰もそれをことさら問題にしないのだから、彼女ひとりが反抗しても詮ないことだった。とはいえ、何に対してもいったんは反抗的な態度を示してみせる生徒たちも、いないわけではなかった。ところがそうした生徒たちは、彼らだけで群れを作り、掟めいたもので縛り合っている様子であった。それは彼女には理解しがたいことだった。要するに彼女は、外見上は問題なく適応していたにもかかわらず、本質的に孤立していた。
 ほとんど動きのない景色を透かしている窓ガラスは、むしろ、月光に照らされた彼女自身の顔をはっきりと映していた。両親をいつも不機嫌にする顔、父親が平気で殴りつける顔、しかし、美しい顔であった。自分の姿であるにもかかわらず、見つめていると、美しい少年の姿にも思えてくるのだった。というのも、そんなにも親しく見つめ返すまなざしを、彼女はほかに知らなかったし、そのまなざしこそは彼女の心をすみずみまで知りつくし、分かちあうまなざしなのだから、もしも恋人というものがあれば、きっとそうしたものであろうと思われたのである。とはいえ、それは冷たいガラス板にすぎないのであるから、彼女は自分の孤独をさらに深く感じた。刃のように深々と胸に刺さる孤独であった。彼女はその場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆い、しばらくそのままでいた。少しばかり泣いたのだが、泣いたところで何が起こるわけでもないという絶望が、涙をせき止めた。
 帰らねばならない。いつまでもこうしてはいられない。こうしていたところで、いずれ見つかれば、よけいにひどい目に遭わされるのだ。帰って、夕食をとらねばならない、食わせてやるだけありがたいと思え、と罵倒されながら食べる食事だが。彼女は立ち上がり、螺旋階段のほうへ行こうとして、ふと、体育館の床のほうを見下ろした。館内の照明が消えているとき、彼女のいる高いところの窓からさす月明かりと、窓の外にあるいくつかの高い建物の照明だけが、わずかな光源になる。床の近くにある窓は、換気に使える程度の小さな窓ばかりなのだ。それで彼女の眼下には暗がりが広がっていた。真夜中の海を眺める思いがした。帰ることをいっとき忘れ、ぼんやりと眺めていた。その暗がりのなかに、波のように数の知れない何ものかがひそんでいる気がしはじめた。かすかなざわめきを感じた。彼女は、はっとした。波のように思われたのは、無数の人間たちなのだ。彼らのまなざしが、すべてこちらにそそがれている。彼女は怖れた。死者たちの霊だろうか。夜の校舎には数多くの幽霊が出るという。いや、きっと幻にすぎない、と彼女は考えた。しかし、それにしても生々しい幻であった。なぜそのようなものを見るのか、理解できず、彼女はただひたすらに怖れた。
 ――怖れるな。何十年も先の未来から君を見ている私が言う。彼らは君の味方だ。彼らは過去の霊ではなく、未来からの霊である。闇に覆われて恐ろしげに見えるのは、単にまだ光が彼らに届いていないからだ。彼らはまだ来ぬ日々の光に照らされる。現在の君には見えない光に。それで今のところは影にすぎないが、やがてはあきらかに姿をあらわす、友人たち、理解者たち、君を愛する人々だ。なんと大勢の人々が、この先、君を待ち受けていることだろう。そして君はなんと多くの贈りものを、彼らのもとへ携えてゆくことだろう。まだ気がついてはいるまいが、君は詩人なのだ。やがて君の心は、その痛みから、その傷口から、歌い出すことだろう。その歌は誰も聴いたことのない歌、この世にはじめて生まれる歌なのだ。美しい歌を彼らに聴かせなさい。今の苦しみは無駄ではない。