白昼の光に大伽藍は甍を輝かせ、屋根の下は夜のように暗い。正面の丹塗りの扉を私は叩いた。扉は固く閉ざされたままで、内から微かな音もしない。もし、もしと大声で呼ばわってもみたが、なんの返事もない。困惑して、境内をぐるりと見回してみたが、敷きつめられた純白の玉砂利を踏んでゆく者は誰もなく、ところどころに植わっている木々が黒い影を投げているばかりだ。再び扉を叩いてみた。はるばる旅をしてきたのである、このまま空しく帰るわけにはいかない。古来、数知れぬ求道者たちが、真理を求めてこの偉大なる寺院を訪れ、そして求めるものを得たという。私は再び呼ばわった。
「もし、もし。なぜ私にばかりこの扉が閉ざされているということがありましょうか」
やはり扉は沈黙している。私は、青銅で鋳られた仏の、厳かに固く結ばれた唇を思った。さらに幾度か、その赤土色の扉を打った。やがて拳に痛みをおぼえ、拳を扉に押しあてたまま、ぼんやりとした。――そのとき扉の内から声がした。
「汝は、なにゆえ相手に対し、言葉を強いる権利があると信じているのか」
私は驚いた。そんなことを信じているつもりはなかったが、そう言われてみればたしかに信じているのであろうし、その根拠がないことも、なるほどたしかだと思われた。絶句していると、さらに声がした。
「このことだけは教えよう。言葉を語る者に対しては、決して扉は開かれぬ」
私は思わずその理由を尋ねようとして、それ自体が拒まれていることに気づき、飲みこんだ言葉で喉がつまるのを感じた。理由を尋ねたかっただけではない。旅の苦労や、真理への憧れ、聖なる権威に対する崇敬、そうしたものを心のかぎりに訴えてもみたかった。それらもまた禁じられているのである。私は喉に締めつけられるような痛みを感じた。だが、まさに崇敬の思いゆえに、忍従することにした。声はなお語った。
「言葉が汝の内に残っているだけでも許されない。完全に忘れねばならない。汝は一点の墨跡もない白紙にならねばならない」
そこで私は、忘れようとした。しかし忘れようと努力して忘れられるものだろうか。とはいえ従わねばなるまい。
「言葉によって汝が積み上げてきたすべてを捨てねばならない。言葉を知らぬ嬰児に還らねばならない」
私は恐怖をおぼえた。だが、それこそは求道の妨げになる執着というものかとも思った。声の語るところに従うなら、私は私でなくなるだろう。だが、それこそが偉大な真理の要求するところなのだろう。真理は言葉を超えたものとは聞いたことがある。扉に押しあてたままの拳が震えた。扉に塗られた鉛丹の色が、廂の下の暗がりのうちにも奇妙に明るく、夕陽の色のように見え、それが不吉な、ひどく陰惨な夕陽に思えた。そう思わせているのは我執だろうか。嬰児になれ、嬰児に。
「汝はひとたび滅びねばならない。完全な阿呆にならねばならない。完全に、完全におのれを失わねばならない。汝は破壊されねばならない!」
私は圧倒され、激しく怖れ、しかも逃げられなかった。私はもはや呪縛されていた。というのも、それほどに恐ろしいものに対して、不思議に魅了され、抗い得なかったのだ。私は自己の破壊を念じながら、満身の力を拳にこめて扉を押し続けた。扉は木造で、かなり古びており、夕陽の色に塗られた表面に、ぼんやりとながら点々と染みがあるのに気がついた。染みはそれ以外のところよりも赤みが強くみえる。何の染みかは分からないが、ごくおぞましいもののような気がし、しかもそれがまた私には誘惑的であった。扉から、私の拳、腕へと、得体の知れぬ病毒が伝わり、全身にその染みに似た赤斑が広がることを思った。一方で、私の拳と扉とが、目に見えない無数の血管によって結びつき、べったりと癒着し、扉が胎盤に、腕が臍帯の如くなり、夕陽色の血漿が赤い血球をのせて私のうちに流れ込むことをも思った。夕陽が不吉な色である以上、それは不吉な心像であったはずなのに、私はどこか恍惚として、まさに言葉なき胎児と化して大伽藍のうちに取り込まれてゆくようだった。
 それでも誘惑に逆らおうとするものが、なおも心に残っていた。捨て去られるべき我執のなごり、ほどなく捨て去られるはずのもの。私自身からさえそのように扱われつつあったものが、ふと語り出した言葉が、にわかに私の胸をついた。――そんなにも私の生は無価値だったのですか。これまで生きてきた日々、それなりに積み上げてきたすべてのもの。
 拳はなおも力をこめて扉を押し続けていたが、心は迷いはじめた。自分を愛おしむ思いと、それを許せない自分。自己破壊の願望と、それを悲しむ私自身。しかも扉は強烈に呪縛し、恍惚とさせ、そして偉大なる真理の前に置かれた私の卑小さをあかあかと照らし出す。いや、もはや滅びるしかないのだ。すでに滅びつつあるのだから。私に入り込み、私を取り込みつつある力が、私を破壊するだろう。それは私よりも偉大なのであるから。
 だが、そのとき私の背後に、もうひとつの力を感じた。そちらを振り返りはしなかったが、白く明るい光が私の肩に軽くふれたようだった。鳥の羽毛のような柔らかさをもって。いくぶん頼りない、しかし暖かく快い、それもまた私よりも大きな力ではあった。というのも、それまで扉の前にかたく縛められていた私を、その柔らかな力こそが、やすやすと解き放ったのだから。そして優しく私に告げた。
「いいのですよ、あなたは、そのままで」
私自身の、それこそ我執の仕掛けた罠ではないかと疑った。私の甘えが、弱さが、そう語っているのではないのか。そうかもしれなかった。しかしひとたび解き放たれてみれば、それまでの恐ろしい緊張に、もはや耐えられなくなっている自分に気がついた。逃げようと思った。とはいえ拳はまだ扉に押し当てられていたのだが、このとき、それまでの力がついに作用したものか、いきなり扉が開いた。真っ暗な堂内にあやうく倒れ込みそうになった。開いた扉からの光にいくらか照らし出されたのは、折り重なって倒れている求道者たちの死骸であった。あるものは黄ばんだ骨と化し、あるものは茶色く干からび、あるものは叫んでいるかのように見え、また笑っているように見えもしたが、ひとしなみに、それらの顔からは個性が失われ、単なる頭骨、あるいはそこに皮膚のなごりがへばりついたものでしかなかった。堂内の闇の奥に、死骸はどこまでも折り重なり、数知れず倒れていると思われた。私は声のかぎりに悲鳴をあげ、ただちに踵をかえして逃げ出した。あの優しい声の主の姿はどこにもなかったが、純白の玉砂利を敷きつめた庭は、真昼の光に照らされて燦爛と輝いていた。その玉砂利の上に私という存在の影を黒々と落としながら、私は生の光に駆け戻ったのである。