旅人

 雪が降っている、こんな真夜中に、窓の外をひとり歩いてゆく者がある。私が彼に目をとめると、彼もこちらを見た。ぼろぼろの衣をまとった、疲れはてた、旅人ではないか。さらに見れば、腕と脚と頭とに、包帯を巻いている。血のにじんだ跡のある包帯は、泥や垢やにひどくよごれている。私は彼を呼びとめ、家に入ってくるよう言った。
 しかし彼はそこに立ち止まったまま、かぶりを振った。やつれた顔に炯々と光る眼で私を睨み、
「君の家に、僕の傷を癒す薬などないではないか」
と言うのだった。救急箱ぐらいならあるのだが!
「旅の目的地にしかないのだ」
と言ってきかない。そこで私は、せめて軽い食事をとってゆくよう勧めた。しかしそれも彼は拒むのだった。
「急ぎの旅なのでね。そんな暇はない」
そして妙に、軽蔑したようなまなざしで私を見るのだ。
「君はそうして、あたたかな部屋で、うまいものでも食っているがいい」
私はあきれて、
「そんなにまでして、あなたはどこへ行こうっていうんです」
と尋ねてみた。すると驚いたことに、その不遜な旅人は、
「君が知らないはずはない」
と言い切るのだった。私が知るはずはないではないか。……だが、当惑した私のまなざしの先、雪道の彼方の闇に、ふと、彼の行こうとしている場所が、おぼろに見えた気がしたのだ。それは私にも不思議に懐かしい、まるで生まれる前にそこにいたことがあるかのような、そして私もまた心の深くで、もしかしたらずっと憧れ続けていたのかもしれない、もしかしたら、それこそは天国と呼ばれる場所ではあるまいかと、一瞬は思ったのだが、それにしても、あまりにもおぼろで、あやふやな幻にすぎなかった。そんな幻のために、あたたかな部屋と、ゆたかな食事とやすらかな寝床を捨てる気にはなれなかった。それにまた、なんといっても、彼の無惨な姿を見るだに、そのような旅に出ることが、私には恐ろしかったのだ。
「では、助けてさしあげられずに残念ですが、あなたの行くべきところにお行きなさい。もう二度とお会いできますまい」
私は言って、目をそらしかけた、その一瞬、はっとした。彼の身元に、心当たりがあった。彼は言った、
「君が思ったとおりだ。当たり前ではないか、こんな真夜中に、窓に映る人影など、窓ガラスに映った君自身の影に決まっているではないか。君は、君自身の影を切り捨てた。安楽な部屋と食事と寝床のために。おおせのとおり、もう二度とお会いするまい、さようなら!」
私は彼のほうを見た、しかしもう彼の姿はなく、かわりに真夜中の窓ガラスを鏡に、私のだらしなく呆けた顔が映っているばかりだった。


   (2011年2月15日、走り書き)