すでに照明の消された廊下の、非常灯だけがともっている闇のなかを、この街のどの学校よりも地味な黒い制服を着て、ひとり歩いているお前、子供の頃の私、どこへ行こうというでもなく、ただ他の子供や教員たちの目から逃れるように歩いている。クラブ活動に参加しないのであれば、もう家に帰る時間であろうに、帰ろうとしない、まるで家からも逃れようとするかのように。飾り気のない黒い衣装が、お前を小さな聖職者のように見せている。小さな両手を前に組んで、そのままお辞儀でもしかねない殊勝さで、足音を立てることを神の前にはばかっているもののように、静かに歩いてゆく。
 渡り廊下を渡り、この時間帯にはもう誰もいない別棟に移って、窓辺に足を止めた。柱にもたれて立ち、窓の外を見る。遠い空の、月や星やを眺める。何かに驚いたように目を見開いているが、いつに変わらぬ夜空に何を驚いているのだろう。月が月であること、星が星であることの不思議さに、驚いているらしい。日常の狭い世界の外側に、宇宙がそのようにあることに、日常の騒々しさとは無関係に世界がそのようにあることに、そして私が私であることに。
 夜空に目をこらす――小さき者よ! お前にこの大きな世界の何を理解できよう。星明かりを映すその目には、いまだ幼い好奇心と希望との光がある。お前はまだ自分の小ささをはっきりとは理解していない。年を経れば経るほどに自覚され、より小さく、小さくなっていくばかりなのだ。
 チャイムが鳴る。すべての子供たちが帰宅させられる時間だ。しかしお前はまだ帰らない。まだ校舎の鍵はかからない。窓の外を眺めつづけている。まだ時間がある。だが、じつはたいした時間が残されているわけではない。子供よ、もう長くはないのだ。残された生の時間は、幼いお前にとってさえも、そう長いわけではない。いたいけな、あわれな子供よ、その小さな体、ちっぽけな頭で、そのことをお前はまったく理解していないわけでもない。そんな年頃ですでにいくばくかの絶望を知りはじめている。もしかしたら自分なりに深く絶望しているつもりかもしれないが、その小さな肩に負えるだけの絶望を負っているだけのことだ。お前が大きくなっていくにつれ、背負う絶望も大きく育っていく。その深さと暗さがお前そのものであるほどに。
 おかしな子供、生まれついての風変わりな子供よ、ほかの子供たちのようには遊びもせず、喜ぶこともなく、こんな時間にこんな場所をひとりさまよっている。その隔たりをお前自身、この建物の暗がりと、向かいの棟の、帰りじたくを始めている子供らのいる窓の明るさとのあいだに眺めている。お前は寂しさをおぼえ、その寂しさはまた、甘やかなものでもあろう。おのれの厄介な性格という形で与えられた、おのれの宿命を、すでにそれなりに受け入れはじめている。そのときお前は、お前をこの世界に送り出したところの、残酷な、しかし懐かしい、大きな暗いものの懐に抱かれているのだ。――窓の外で水鳥の鳴く太い声がして、たちまちお前はそちらに気をとられた。こちらの棟と向かいの棟のあいだの中庭から、大きな鳥の影が舞い上がり、暗い空のどこかへ飛んでゆく。お前のまなざしは鳥を追えるかぎりに追う。結局のところ明るい窓よりも、夜空の鳥に憧れるのだ。
 少しばかり疲れて、窓を背にして、床に座り込む。窓からの月光がほのかに壁を照らしているほかは、非常灯の光があるばかりである。その暗さに安らぎをおぼえる。背後の壁の向こうでは、もう子供たちは部屋を出て、窓の明かりは消えたのだろうか。いつまでもこうしてはいられないと、分かっていながら、お前はまだ帰る気にならない。闇のなかで膝を抱える。膝を抱えた腕を上にずらし、両の二の腕を抱く。交差する腕に顔をうずめる。この世界で自分を理解し、愛してくれる唯一の者の腕のように、お前自身の腕がお前を抱きしめる。そのぬくもりを感じながら目を閉ざす。――私は確言するが、まわりの大人たちの誰もお前を理解することはなく、誰ひとり助けはしない。そのことをすでにぼんやりと予感し、ゆえにこうした日々の終わりを思い描くこともなく、それを望むことすら思いもよらず、けなげにも、ただおとなしくうずくまっているのだ。お前、このうえもなく愛しいお前、この私よ、いっそ闇のなかで血を吐いて死ね。