聖堂

 正午近くの太陽が輝いている。おそろしく暑い。歩いているうち、ときおり意識が遠ざかる。太陽のせいだろうとは思うものの、もしかすると私自身、熱があるのかもしれない。赤い、大きな、古い煉瓦造りの建物のまわりを歩いている。建物の内にも外にも、誰の姿も見えない。まったく物音がしない。人の声がしないばかりでなく、小鳥の声も、風のかすかな音さえも聞こえない。
 何の建物か分からない。表札や看板のたぐいは何もない。規模からいって個人の住まいではなく、公共の建物ではあるまいかと思う。すべての扉はかたく閉ざされている。ガラス窓の内はあまりに暗く、室内の様子をうかがうことはまったくできない。窓枠の造りが、私がいつか見たことのある学校の建物に似ているというだけの理由で、これは学校かもしれないと思う。学校だとしても、すでに廃校となって久しいのではないか。扉のかんぬきが、もう動かせないのでないかというほど、ひどく錆びている。しかし、真っ暗な窓の内に、誰かいるのではないかという気はする。私のかつて知っていた誰かではないか。――また気が遠くなりかける。それは私のかつての同級生だろうか。ならば、この建物は私の母校だったろうか。まったく覚えていないが、なぜ忘れてしまったのだろう。
 目まいを覚えつつ数歩を歩むと、ふと、建物の一角、建物の一方の翼の端にあたる塔が、幾重にも有刺鉄線で囲われているのに気がついた。いつか見かけた軍隊の演習場のまわりの柵にそれが似ているというだけの理由で、私はまた、この建物は軍事施設ではないかと考えはじめた。すると硝煙の匂いさえ私はかいだ気がしたのである。有刺鉄線は夕陽の色に錆びついている。私はふたたび奇怪な郷愁にとらわれた。まったく覚えていない戦争の記憶が、具体的な光景を何も伴うことなく、ただ、もしかしたら戦友たち、親しい死者たちに対するものかもしれない、胸をかきむしる懐かしさ、悲しさのみとして蘇る。――塔の高み、正午の空を映すガラス窓の内に、懐かしい人々の姿が青白い影としてよぎるのを、私は見なかったか?
 その記憶が本当の記憶であるという自信はなかったが、しかしこの建物にひそむものが、何か亡霊のたぐいであるということは、奇妙に確信された。私は、これは廃病院でないかと思いはじめた。すると、すべての窓の内に、永遠に治ることのない患者たちが、ゆっくりと歩きまわり、静かに身を横たえ、あるいはぼんやりと窓の外を眺めたりなどしている、気配のみが、しかし目に見えるものと同じほどにありありと感じられはじめた。消毒薬のかすかな匂いも漂い、さらには忌まわしい、死臭らしきものさえして、すぐにも逃げ出したかったが、そうできなかったのは、やはり彼らが私の遠い昔の知人たちであるという気がしてならなかったのだ。
 ふと、私に対する何者かのまなざしを、建物の内からではなく外から、私が行きかけていた方角から感じた。そちらを見ると、有刺鉄線に囲われた塔の向こう側から、たった今歩み出てきたといった様子で、そこに歩を止めて私を見ている者があった。非常に美しい、女性とも男性ともつかない若者で、目もとに微笑の気配があった。やわらかに波打つ髪がきらめいていたのは、陽光のせいだけではないようだった。天使だと私は直覚した。天使でなければ、あれほど優しい微笑を浮かべることができようか。それにまた、その若者に対しても懐かしさを覚えたのを、私は、常に私を見守り続け、私が生まれる以前からさえも見守り続けてきた、最も私に近しい存在であるがゆえに違いないと思ったのである。自然にそう思えるほどの懐かしさ、あたかも肉親か、恋人に対するほどの親しみ、愛しさを、その姿を目にした瞬間から感じていたのだ。――天使は微笑を浮かべたまま、しかし目を伏せ、何も語らず、ふたたび塔の向こう側へ姿を消してしまった。私は追った。
 しかしそこには誰もいなかった。私は立ち止まって呆然とした。やがて私の立っている場所と、建物の壁とのあいだの地面に、黒い染みがあることに気がついた。乾いた土のそこだけが、何ゆえか湿気をおびているのだった。私は訝しんで近寄ろうとし、その黒さに不吉なものを覚えて立ち止まった。だが、すでに不吉なものそれ自体が私のほうへと不可視の触手を延ばしてきているらしかった。というのも、すでに私は、それが黒く変色した血、あるいは死骸から流れ出る腐敗液のたぐいであるという気がしてならず、それを自分の心から振り払おうとしてもできなかったのである。しかも忌まわしいことに、それはどうしても、あの天使の肢体に由来するものに違いなかった。その黒さからすれば、天使は、私の前に姿を見せるよりもかなり前に、死んでいたとしか考えられない。
 さらに私はその黒さと同じ黒さを、地面にほど近い壁の煉瓦のいくつかに見出した。古い煉瓦が劣化して黒ずんでいるだけでないかとは思った。実際、この場所へ来るまでにも、同じような色の煉瓦をあちこちに、いたるところに、いくつともなく見かけはしなかったか。視線を壁伝いに這い上らせてみれば、ここでも、はるか高いところまで、黒みをおびた煉瓦がさまざまな黒さの度合いをもって、数知れず嵌まっていた。しかし私にはもはやそれらを単なる古色として眺めることができなかった。変色した血であるか、腐敗液であるか、そうしたものがこの建物の見上げるばかりの壁に染み込み、壁そのものを腐食しているのを感じた。ならば赤みを保っている煉瓦さえも、まだ新しい血の色をおびているのではあるまいか。この建物の全域がそのようであるに違いないと思った。死者の数の膨大さを想像した。見れば、腐食の進んだ煉瓦はすでに海綿のようになってしまって、黒い液体がじっとりと染み出ているではないか。この建物はもうぼろぼろなのだ。すぐにも崩れかねない。しかもなお忌まわしいことに、私には、その劣化が、腐食が、血が、腐敗液が、懐かしかった。それは私にゆかりのある無数の者たちの肢体の名残りだ。その光景は恐ろしいとともに、このうえなく荘厳にも感じられ、ほとんど恍惚として眺めている私自身があった。であるから、たとえ巨大な壁面が私をめがけて崩落してこようとも、私には逃げることができない。――いや、逃げねばならない。
 身をふりほどくように、私は背を向け、走り逃げようとした。だが、そのとき私の目の前に開けた景色は、見渡すかぎりに広がり咲き誇る、血赤色のサルビアの花園であった。地面はいつしかすべての土が黒々と湿っていた。空が奇妙に黄色く見えた。ふと、試験管のなかで赤黒い血餅と分離した黄色い血漿が連想された。私は立ちすくんだ。正午の太陽が真上から照りつけ、私の影は真下に最も小さく、最も黒い。太陽が私に言った。逃げるところはない。逃げるべき未来の時がすでにおまえの前方にない。時が、すでに変質し、崩壊しはじめている。過去は背後に、膨大に堆積し、しかもおまえにはそれを思い出すことさえできない。そして現在、すなわち無限の時の流れのなかの極小の一点にすぎないものを、私、おまえの存在をこの高みから照らし出す私が、おまえのその緊張のきわみにおいて、永遠にまで引き延ばす。