舟旅

 北のかなたの国で、今しがた日の沈んだ海を、さらに北へ向かって漕いでゆく小舟があった。風変わりな旅人がひとりきり乗っている。薄暗い空の下を、さらに光とぬくもりから逃れようとするかのように、最も暗い水平線へ向かって漕いでゆくのだ。身を切るように冷たい風は、氷の世界から吹いてくるのだろうか。しかし彼には寒さを気にかける様子はない。夏のような軽装で、平気な顔つきをして行く手を見ているのだ。彼自身の青い唇、櫂を握りながらかじかみ震えている指先にも一向に気付いていない様子で。どこへ行こうというあては、はたして彼にはあるのだろうか。行く手に小島の影のひとつも見えず、小舟には荷物らしい荷物も積んでいないのである。しかし彼に尋ねるならば、彼は迷いなく答えるだろう。北へ行くのですよ。
 たとえ航海の途中で死のうとも、その死は誰にも知られない。もしも死骸が浜に流れつこうとも、それらの浜辺さえも、人々の住まうところからは遠く隔たっているのであるから。――白い鳥が一羽、薄明の中を飛んでゆく。もはや人間たちの言葉を解する者がまったくいない場所へ来たのだな、と彼はふと考える。言葉、それによって形作られたあらゆるもの、世の中と呼ばれているもの、人々の利害関係、さまざまな価値観、そして愛と称されているもののおおかたさえもそれに属するところの、複雑で巨大な網、その外に出てしまったのだ。今はただ、自分ひとりが物事を認識し、考えをまとめるための道具というにすぎない。それはこの海と空とのあいだで、なんと小さく頼りない道具だろう。いまや言葉は自分のうちにしかないのだ。そして、そうなってしまうと、自分自身にとってさえも、さしたる用もない道具であることに気付く。認識し、思考し、まとめてみたところで、それを伝える相手がいないのだから。
 すると世界がそれまでとは違った見え方をしはじめる。とはいえ、見覚えのない景色でもない。言葉の網のうちに自分もまた完全に編み込まれてしまう少し前、まだ半ばは自由であった頃に見ていた景色を、今ふたたび見ている気がする。幼い日、世界はこのように見えてはいなかったか。海の色、雲の流れ、風の匂い、そういったものについて、ことさらに認識し理解しようとするでもなく、誰に伝えようとするでもなく、ただ単純な驚きと喜びをもって受けとめていたと思う。人々の関係性のなかではまだ必ずしも生きておらず、多くの時間を安らかな自足のなかで過ごしていた、あの子供の頃の世界である。顧みればあまりに長い年月を、自分は、この世界がこれほどに広い、限りなく広いものであるということを忘れて生きてはいなかったか。ごく狭い枠のなかだけを世界と心得て。何と、多くのことを知ったつもりになりながら、多くのことに無知な者になりはてていたことか!
 そして暗い水平線は、幼い日の記憶の中でも最も幼い頃の、思い出せる限り最も遠い記憶のなかで見た景色に似ている。はるかな、おぼろな、しかし完全に忘れ去られるということはなく、ひとたび思い出されれば、つい今しがた起きたことどもよりも強く、はるかに強く心をとらえて離さないもの。思い出されぬあいだも、つねに心の深みにひそみ、静かにそこにありつづけているもの。それは海の景色であったのか、実のところはっきりとはせず、もしかすると湖あるいは池、それも小さな池にすぎなかったのかもしれない。小さな子供の目にそれが大きなものに映っただけのことかもしれない。いや、それどころか、自宅の、灯りを消した浴室であったかもしれないのだ。あるいは子供部屋の隅のちっぽけな暗がりであったかもわからない。あの頃、彼は、紙きれを筒に丸めてそのなかを覗き込むのが好きだった。その筒先がたまたま暗がりに向き、その小さな、あまりに小さな視野のうちの景色が、幼い者の心には、薄明のかなたの闇として深く刻まれたのだったかもしれない。とはいえ、仮にそうであったとしても、幼い者の目は、その闇自体を見ていたのではなく、それとよく似た何か別のものを見てはいなかったか。彼の最も遠い記憶よりもさらに遠くのもの、現在の彼にはもう思い出せないところの、幼い彼の記憶にはまだ残っていたはるかな景色、その闇を、懐かしんでいたのではなかっただろうか。
 子供のまなざしを失ってさえもなお心にかかりつづけてきた闇、あの闇によく似た、あまりにもよく似た景色のうちに進んでゆけば、最も幼い日にはるかに望んだ懐かしいものに、闇のなかの闇に、ふたたびたどりつけるのではないだろうか。彼はそう思い、夢見、やがてそれを疑うことをほとんど忘れた。考えるという行為は言葉の網のうちの世界に置き去ってきたのだし、いまや世界はその外にはるかに広がっているのだ。髪や胸やに凍てつく風を受けながら、彼はひたすらに漕いでゆく。空と海とはいよいよ光を失い、彼の小舟のありかも暗がりのうちに見分かちがたくなってゆく。そのおぼろな舟影は、世界の果てに向かっているようでいて、その実、彼の心の深みへ向かっているようだ。