孤客

 彼がまだ幼い子供だった頃のことである。彼の住んでいたあたりはよく雪の降るところであったが、その夜はことに降りつもり、集落からやや離れて建つ、彼の生家である大きな屋敷のまわりは、深々と雪に覆われ、しかもさらに降りつづいて止む気配がなかった。
 幼い彼が食事を終えて、そろそろ寝ようとしていたとき、屋敷に突然の来訪者があった。若い旅の女であった。この雪に歩をはばまれ、宿場町に辿りつけぬまま、途方に暮れてさまよううちに、お屋敷の灯りを見つけた、どうか一夜の宿を貸してほしい、とのことである。どういういきさつで、こんな厳しい季節に女一人で旅をしているのか分からなかったが、身なりを見るに身分いやしからぬ様子、何かやむにやまれぬ事情があるのだろう。家の主人は快諾し、使用人たちに彼女を奥の客間へ案内するよう命じた。主人の一人息子である幼い彼は、廊下を使用人たちに伴われて歩いてゆく彼女の姿を見た。なんと美しい人だろうと思った。生まれてほんの数年にすぎない彼の記憶のなかに、それほど美しい女の姿は見当たらず、そればかりか、はるか後年になってもなお、彼女ほどに美しい女の俤を一度たりと目にしたことがないと彼は思っていた。
 彼らの後ろ姿が廊下の奥を曲がって消え、そろそろ客間へついたかと思う頃、にわかにそのあたりが騒がしくなり、やがて使用人の一人が駆け戻ってきて主人を呼んだ。二人が客間のほうへ行き、なおしばらく騒ぎが続いたあと、彼らみながこちらへ戻ってくる物音を子供は聞いた。だが、乳母が、お坊ちゃんもう寝ましょうと手を引くので、やむなく寝室へ向かった。寝室へは人々が戻ってくるのとは別の側の廊下から行くのである。だが、もれ聞こえてくる人々の声から、おおよそのことは分かった。あるいは、後になって彼らから聞いた話を、幼い記憶のなかで継ぎ合わせたのかもしれず、もしかしたら、事実とは異なる、子供の夢見たものがつけ加わっているのかもしれないが、彼自身は、大人になってからも、年老いた今となってもなお、すべては事実であったと信じている。
 屋敷には、これはたしかに事実なのだが、開かずの間があった。いつからそうなったのか、知る者はその頃にはすでに誰もなかった。客間への廊下の途中にその部屋はあったのである。もちろん客にそのような話はしない。ところが、旅の女はふとその部屋の前に立ち止まり、扉に触れたのだという。あるいは扉に触れさえせず、ただ手をかざしただけだともいうのだが、すると、かたく閉ざされているはずの扉が、音もなく開いたのだ。部屋の内は暗闇で、誰にも何も見えず、また誰もが、恐ろしがってあえて見ようともしなかった。ただ目をそむけながら、最も気丈な男が、すぐさま扉を閉め、女をとりおさえた。使用人たち、また呼び出された主人も含めた彼らの心に、昔ながらの迷信的な怖れが取り憑いた。この女は魔物だ。叩き出せ。女は多少の抵抗を見せたが、思いのほか早々と諦めた様子で、おとなしく彼らに従った。彼女を玄関の外へ引いてゆくのは、彼ら自身が苦労したと語っていたほどには、たいした仕事でもなかったのである。夜の吹雪のなかを、よろめきつつ、どこへというあてもなく女が歩み去ってゆくのを見届けて、彼らは玄関の戸締まりをすませた。それから、もともと悪気のない人々である彼らは、自分たちが行ったことが正しかったのか、少しばかり心配になった。だが、もしもあれが魔物でなかったとしても、家というものはこの屋敷のほかに、ないわけではないのだから、どこかで、どうにかするだろう、などと話し合った。しかし、あの開かずの間の扉が、再び、押せども引けども開かなくなっていることに気づくや、また彼らの心は恐怖に覆われた。まだ誰も扉に鍵をかけてはいなかった。鍵のありかは誰も知らず、ひとたび開いてしまった扉をどう施錠したものかと話しはじめた矢先のことだった。
 ただ幼い子供だけが、暗い寂しい雪野原へと追いやられた女の身の上を、哀れに思い続けていたのである。子供には、大人たちの怖れがよく理解できない。開かぬ扉を開けたというまでのことではないか。開いた扉がまた閉じたことも、どこに不都合があるのか分からない。彼はただ、雪のなかを遠ざかる女の後ろ姿を思い浮かべ、胸のしめつけられるような悲しさをおぼえるのみだった。が、やがて幼いまぶたは重くなり、すべてを忘れて寝入ってしまった。
 真夜中に、不思議に快い匂いがして、闇の中で目が覚めた。母の化粧台に漂う白粉の匂いに似ているので、母さま、と小声で呼んでみたが、返事はなかった。誰もいないようだった。ただ、寝室の部屋の扉が細く開いているらしかった。子供は部屋の外に出てみた。屋敷は寝静まり、廊下は真っ暗だった。ほのかな匂いが、闇の奥から招いている気がして、彼は歩きはじめた。灯りもなしにどうやって歩いたのだろう。むしろ闇の中をゆるやかに落ちてゆくようだったと、彼は後々までも記憶していた。そして、どのようにして寝室に戻ったのかについては、まったく覚えていないのだった。たしかに翌朝にはいつものとおり寝室で目が覚めたのである。といって、彼は決してこのことを夢だなどとは思っていなかった。
 幼い彼は、開かずの間の前に立っていた。仄明かりで自分の居場所を知ったのだが、それがどこからの光であったのか分からない。扉のそばに、あの美しい女が佇んでいるのを見て、彼は嬉しくなった。雪野原で凍えずにすんで本当によかったと思った。女は、ほかの誰にも聞こえない、子供にだけ聞きとれるほどの、小さな、静かな声で語った。自分は、百年あまり前に行方知れずになった、この家の娘である。今宵、ようやく帰ってくることができた。さきほど家の者たちを驚かせたのは申し訳なく思う。この部屋は私の部屋である。とうに亡くなられた父さまが、いつの日にか私が戻ってくるのでないかと、この部屋を何も変わらぬままにしておいてくださったのだ。さきほど扉を開けたときに、それを見た。私のほかに誰も入らぬよう、父さまは鍵をおかけになった。私だけがこの部屋に入ることができる。お前は優しい、よい子だから、お前にだけこのことを教えた。誰にも言わぬように。
 そして女は、白い細い手で、扉にふれるかふれぬかに、扉が音もなく開くのを子供は見た。部屋の中は暗闇であったが、母の部屋にいくらか似た、女の部屋らしい柔らかな空気が流れ出てくるのを感じた。それから彼女は内側から扉を閉め、鍵のかかる音がかすかにした。