七歳の夏から住みはじめた森のなかの家で、はじめて迎えた冬の、ある日の朝早くのことである。それまで住んでいた街なかの家よりも、ずっと寒い。なにしろ家の外には、街の暮らしではほとんど目にしたことさえない雪が、この数か月来降りつづき、深々と積もっているのだから。彼女の母が起こしにくるとき、部屋のストーブもつけていくのだが、彼女は寝床に頭までもぐり込んだまま、なかなか出ようという気にならない。部屋がじゅうぶんに暖まるまで少しかかる。そうするうち、またうつらうつらと眠くなる。その朝も少女はそうして寝床にぬくぬくと丸くなっていたのである。――すると、部屋の窓を外からこつこつと叩くものがあった。少女は布団にもぐったまま、掛布団のへりをほんの少しだけ上げて、そちらをうかがい見た。
 母が開けていったカーテンの向こう、窓の外の景色は、まだ日の出前の、わずかに空が青みをおびたばかりの暗がりのなかにあった。部屋の灯りのほうがずっと明るく、その光に照らされて、一人の少年が立っていた。彼女と同じくらいの年頃である。彼女にはそれが誰だか分からない。色白の、丸いやさしい顔立ちをした、澄みきった大きな目の少年である。その瞳の美しいことは、あたかも冬の夜明け前の星の光を宿しているかのようだ。真っ白の、ふわふわとした外套を着て、同じ素材でできた帽子をすっぽりとかぶっている。そして小さな手を愛らしい拳に握って、ふたたび窓ガラスをこつこつと叩いた。叩きながら、美しい目で少女をひたと見つめた。なにか訴えたげな、しかも哀しげにもみえるまなざしが、気にはなったものの、彼女はなおも寝床から出ようとはしなかった。眠くもあったし、また、眠いからには、それが夢うつつの幻ではないかとも思ったのである。幻であればよいとも思ったし、やがて幻だということにしてしまって、彼女はふたたび眠った。なかなか起き出してこない娘を叱りにきた母の声に、ようやくはっきり目をさましたときには、窓の外には誰もいなかった。
 少女がまだ顔を知らない、あるいは覚えていない、近所の子供のいたずらだったのかもしれない。そう考えるのが一番自然であったはずだが、不思議と彼女はそれは思いつかなかった。朝食を食べながら、ずっと少年のことが気にかかっていた。なにを訴えたかったのだろう。寒かったのでないか。寒くて、部屋のなかに入れてほしかったのでないか。そうだとしたら、まなざしが哀しげであったのももっともなことだ。次第に彼女は、自分が悪いことをしたような気になってきたのである。自分の怠け心のせいで、気の毒な子を助けてあげられなかった。あの子は、どこへ行ってしまったのだろう、この雪のなかを。少女は、星を宿したような少年の瞳を思い返した。近所の子供のいたずらということを思いつきもしなかったのは、その瞳のせいであったのかもしれない。
 朝食を終えて、外に出た。学校へ行く道をすぐにはたどらず、自分の部屋の窓のほうへまわってみた。ようやく昇ったばかりの日の光に照らされた雪の上に、足跡は残っていなかった。すでに埋もれてしまったのか、そもそもなかったのかは分からない。ふと、かたわらの庭木の低い枝に、蛾の繭がひとつついているのに気がついた。蛾の種類は分からないが、蚕の繭に似ており、しかしそれより小さい。葉の落ち尽くした、黒い裸枝の上で、凍てつく風にさらされている、この小さな丸いものは、いじらしく痛々しい。模様も色もなく、真っ白な、雪のような白さの糸でできている。少女は、少年の外套と帽子とを思い出した。
 さきほどからの、少年への罪の意識が、少女の心に気味の悪い幻想を生みつけた。あの子は、この繭のなかにいるのではないか。寒さのあまりに、あの子はこんな姿に変身してしまったのではないか。私が助けなかったから。こんな小さくなってしまって、繭のなかでじっと寒さをしのんで、やがてそこから出てきたときには、情けない虫けらの姿で、小さな翅であてもなく飛びまわり、さまよったはてに、みじめに死んでしまう。それはありえないことだとは彼女には思えなかった。あってほしくないことではあったが、幼い子供には、充分にありうることのように思えたのである。
 少女は逃げるようにそこを立ち去った。そして、なるべくそのことは考えないようにした。実際、学校で勉強したり、友達と遊んだりしているうちに、そのことは忘れてしまった。しかし家へ帰ってきて、庭のそのあたりが目に入ると、また暗い気分になった。自分の部屋で、窓越しにその方向を見ても、やはりそうなった。目をそらすとかえって怖くなりもした。何か不吉なものが、彼女を罰しにくるような気がするのだったが、それは他ならぬ彼女自身の幼い良心の影が、彼女を苦しめるのであったかもしれない。だからといって、毎朝、すぐに寝床から出ることができるようになったわけでもなかった。あいかわらず布団にくるまって丸くなりながら、それまでのように無邪気にぬくもりを楽しむわけでもなく、後ろめたさをおぼえながらの朝寝坊であった。少しずつ日は長くなり、雪の降り積もっている森のなかにも、彼女の家の庭にも、明るい木もれ日がさすようになったが、あの繭のあたりだけは、少女には、暗く寂しい真冬の頃のままであった。そのようにして、やがて春が来たのである。
 おおかたの雪は融け、落葉樹の芽はふくらみ、はやばやと花をつけはじめた枝もあった。地面には柔らかな草の芽が、はにかみがちに双葉を広げはじめていた。朝、彼女の母が起こしにくるとき、部屋のストーブはもうつけない。カーテンは開けていく。その時刻は冬と変わらないが、日は昇りはじめている。少女の心は弾み、母に叱られるまでもなく寝床から出て、窓を開けた。彼女の知らない花の香りがした。どこに咲いているのかと見回し、こぶしの花に目をとめたとき、そのすぐそばの木の枝の、あの繭が見えた。春の喜びのあまりに、いつもなら気にかかってならないそれのことを忘れてしまっていた。目に入ればやはり不安になったが、今朝は何か繭の様子が違っている。どうしたのだろう、またいっそう怖がらすことが起こっているのでなければいいがと、心配しつつ、確かめるために窓から身を乗り出し、目を凝らした。
 繭の頂に、穴が開いている。きれいな丸い穴である。そこから繭の中が見える。からっぽである。夜のあいだに出ていったのだ。ふわりと飛び立つ小さな白い蛾の幻影を追いかけて、彼女は空を見上げた。こぶしの枝の向こうに、まだいくつか輝きを残している星々の下を、彼はどこまで飛んでいっただろう。やわらかに霞む春の空である。それは地上の春と同じようにうらうらとして愉しげで、そうした空を渡っていくのもまた幸福なことであるように思われ、少女の夢想は彼を追ってみずからも高く舞い上がった。