紙片

 亡き祖母がながらく守ってきた古い土蔵の中で、私は妙なものを見つけた。埃だらけの棚の上、何が入っているやら知れぬ木箱や壺の陰に、一枚の紙片が落ちていた。置かれていたのではなく、落ちていたのだと思うが、もしかするとわざと無造作に、何でもないもののように置かれたものであったかも知れず、私には分からない。手のひらほどの大きさの紙片である。黄変し、朽ちかけ、もしかすると触れただけで破れてしまうのでないかというほど脆くみえた。だが私がそれに触らなかったのは、ほかに理由があった。見るからに汚かったのだ。いや、衛生上のことではない。ただ印象として、おぞましい、気味の悪い、穢らわしい感じがあった。紙片の端に何か液体が付着したのに違いない汚れがあり、同じ液体であろう飛沫が点々と全体を汚していた。赤茶色をしたそれは私にはどうしても血痕に見えた。乾ききったその染みが、たとえ血液によるものであろうとも、いまさら衛生上の問題がさしてあるとは思えなかったのである。が、いかにも不気味であった。私は胸が悪くなった。にもかかわらず、紙片を眺めつづけていた。暗い土蔵の中で、そのあたりだけは、小窓からさしこむ西日を浴びて明るかった。それで、紙片の上にこまごまと書きつけられている、褪せた青インクの文字をさえ、私は丹念に読んでいたのである。
 ありふれた日常の品物の名が並んでいる。買い物の覚え書きではないか。蜜柑、人参、鍋、麻紐、煙草……。何ということはない。中に「○○家に届け物」「△△氏の件で相談」などともある。いつの時代の日常だろう。かな遣いと字体から、私の生まれるはるか前であろうと考える。汚い赤茶色の斑点の下に、その筆跡は淡く、細く、どこか神経質らしい印象を受ける。かすかに震えているようにさえ見えるのだが、病人の筆跡ではあるまいか。しかし買い物や届け物をするのであれば、歩けぬほどの重病人ではあるまいけれども、私は、薬の力を借りてようやく日常の用を足すことばかりはできる者の、なかば幽霊のような足取りを想像した。あるいは、これはまったく馬鹿げた想像かもしれないが、たとえば、狂人があてもなく書きつけた、実際の用に供されることは一度たりとなかった覚え書きではなかったろうか。そうでないとしても、薄幸の人のものであろうとはどうしても思われ、その不吉な気配は、ほとんど正視に耐えないほどのものだったにもかかわらず、目をそらすどころか、どうしたことだろう、私はそれを凝視しつづけていたのだ。魅入られていたのである。得体の知れない魅惑、強いて言うならば、懐かしさに似たもの、いや、まさに懐かしさであるのに違いない、しかし普通のそれよりもはるかに強い力を持つものに、絡めとられていたのだ。西日は次第に赤みを増し、紙片の汚れていないところをさえ、淡い血の色調に染めはじめていた。
 物品の名の羅列の中に「アカンボの玩具(ダルマ)」とあった。私は、幼い頃に住んでいた家の物置部屋のことを思い出した。昼間でも薄暗いその部屋の片隅に、赤ん坊の遊ぶ起き上がりこぼしがあった。桃色の球状の胴体に、それよりもひとまわり小さな球状の、桃色のかぶりものをした幼女の頭部が載っている、プラスチックの達磨である。それは当時の私よりもさらに幼い頃の私が遊んでいた玩具であった。今の私は、赤ん坊の頃のことなど思い出せないが、その頃の私は、ぼんやりとではあっても覚えていたはずだ。覚えていたはずである、ということだけを今の私はかすかに覚えている。そして当時の私は、さらに幼い頃の記憶を、何か厭うべきもののように感じていた。薄暗がりの中、起き上がりこぼしはすでに埃をかぶって灰色にくすんでいた。私はそれを見てぞっとしたのである。その嫌悪感の正体は、おそらく、自分がまだ自分になりきらなかった時代、言葉も知らず、自分の体を自分の意のままに動かすこともままならぬ、わけの分からぬものであった時代への、恐怖感であった。当時の私は、その記憶に封印してしまいたかったのだ。……血のにじんだ紙片に記された「アカンボ」とは、私のことではないのだろうか? 証拠は何もない。そこには「ダルマ」と書いてあるだけである。それにまた、紙片は私が生まれるよりずっと前のものではなかったのか。だが、それにも証拠はないのである。単に、かな遣いと字体から私がそのように想像したまでのことだ。ただ、とにかく古い、きわめて古いという印象は受ける。そして私が赤ん坊であった時代とは、私の個人史の中で、最も古い時代ではあるのだ。そこで私は、紙片の古さと、私の年齢との間に、とりたてて矛盾を感じはしなかった。幼い日には嫌悪を覚えたものに対して、今の私は、まったく思い出せなくなっているにもかかわらず、不思議に憧れていた。何も記憶に残っていないにもかかわらず、懐かしかったのである。はじまりの混沌に引きずり込む、恐るべき懐かしさである。だが、いまだ言葉なく、私が私でなく、誰でもなかった、その時代にあまりに強くしがみつきつづけることは、私が崩壊することを意味しないだろうか?
 母に紙片を見せて尋ねれば分かるかもしれない、と思った。しかし、そのような薄幸の人のことを、母はかつて気配だに私に伝えたことはない。全然思い当たらないと答えるかもしれない。しかしそれよりありそうなのは、筆跡はつい先日まで存命であった祖母のものであり、もちろん病人でも狂人でもなく、染みはどうしてできたか分からないが、ありふれた染みにすぎない、という答が返ってくることである。それはまあそうであろう。しかし私は思うのだが、母ははたして本当に私の母であろうか?
 いや、そうであるには違いない。しかし記憶をはっきり辿れるかぎりの最も遠い過去において、母は、たしかに今の母と同一人物であるにもかかわらず、今の母ではない。若かったというだけでもない。彼女は、聖なるものであったのだ。ほかのどの女性とも違っていた。なかばはこの世のものでない、大いなる存在であったのだ。もちろん、今なお優しい母ではあるが、私と同じくこの世のひとりの人間であるにすぎない。本人にこんなことを言えば、どんなにか気を悪くするであろうけれども……。
 さらに記憶をさかのぼり、もはや思い出せぬほどのところに辿りつけば、原初の光の中で、母はいっそう神さびたものであったろう。それが真実の私の母であった。私は、おおもとの世界から正しく発した時間の流れから、いつの間にか外れてしまって、別の時間の流れの中に迷い込んだのではないだろうか。ある時期から、私の世界は、私の人生は、すべて偽物で――。
 ああ、そんな気がしていたのだ、たしかに、ずっと前から! 私はいつの間にか、すべてを失ってしまったのだ。戻ろう。時間の流れをどこまでもさかのぼっていこう。この紙片をたよりに、記憶の中に点々と、はるか遠くまで滴り落ちている血痕をたどって、やがてそれが鮮血となるところまで。そこで私は懐かしい死者と出会い、母は聖なるものとなり、世界は本来の光輝を取り戻す。だが、そのとき私はすでに私ではなく、言葉を持たず、何もできず、誰でもない、わけの分からぬものになりはてているのだろう。