夏日狂想

 炎天下、赤錆色の砂利の上で、鉄道のレールが血の歌を歌っている。かげろうが立ちのぼる。沿線の森は鬱蒼と茂り、蔓草をびっしりと絡みつかせつつ、青空へ隆々と盛り上がり、緑の大伽藍のようだ。神が血の供儀を求めている。この季節、死肉にたちまち群がり喰い尽くす、蟻やウジ虫どものような神だが。私はレールの上を歩きながら考える。何も私を供物として捧げる必要もないのだ。かつて私を憤激させた者、私に恥辱を与えた者、思い出せる限りの過去から今に至るまで、私を傷つけた者ども――それが直接であるか間接であるかを問わず――ひとり残らず引っ捕らえ、陽光に焼けたレールに並べ、轢殺せよ! 鉄の車輪が彼らを粉砕する。ウジ虫の神もさぞ喜びたもうであろう。さて、次の電車まであと三十分である。それまでに連中を捕らえ尽くしてここに並べ終わらねばならない。なかなかの大仕事である。しかし二両編成、時速四十キロの電車にこの大役がつとまるものだろうか?


 古いコンクリートの橋から川面を見下ろす。燦爛たる日の光を浴びながら、水の色は暗い。少しも涼を感じない。温気が立ちのぼる。子供の頃から不思議なのだが、この川の水は時折流れるのをやめ、同じ所で単にゆらゆらと揺れ動く。あるいは一方の岸から一方の岸へ向かってさざなみが渡ってゆく。またあるときには川下から川上へ逆流しているようにしか見えない。錯覚ではないのであれば、河口に近く、そもそもが緩慢にしか流れない水が、あるときは潮の満ち干の干渉を受け、あるときは風の影響を受け、または中州や橋脚にぶつかりなどして、不思議な動きを示しているのではなかろうか。海の波などは、じつは極めて多様な力により生じた、無数の波が重なり合ったものであると聞く。この川も案外、それに近いものがあるのかもしれぬ。うんざりする温気を放ち、少しも流れず、ゆらゆらと揺れるばかりの黒く深い水を眺めながら、いささか意識が遠のいてくるのをおぼえた。帽子をかぶり忘れた私の頭は苛烈な陽光の直撃を受けている。私の意識もまた多様な影響のもとに生じた波の重なりのようなものだ。無数の観念、無数の連想、無数の言葉の作用の重なり合う、複雑怪奇の波である。織り成されたものは解きほぐすことができる。私は私の意識が解体されることを想像する。幼い日から習い覚えたすべての文字が、無数の線にほぐれてゆく。すべての言葉が、つながりを失ったばらばらの単語に、音節に、音素に、単なる音に。肉体もまた、それを構成するあらゆる組織がほぐれ、ばらばらに分解され、微細になり、目に見えるよりはるかに小さく、やがて元素に還元され、永遠の、無窮動の、宇宙を挙げての元素の戯れに参入するのである。もちろんその時には私はもはや、思考することなどありはしない。ただ、ただ、永遠の舞踏を踊るばかりである。さまざまな形を成しては崩れ、成してはまた崩れ、目的なく、限りなく無邪気なその運動を続けるのみである。この素晴らしく快活な思いつきに私はたちまち気分がよくなった。頭も涼しく冴々として、嬉しさのあまりに橋の欄干に飛び乗り、晴れやかな崩壊の時を持つまでもなく、その場で踊り出してしまいそうだ。


 夕暮れ、路傍に蝉の死骸が転がっている。なかば砂に埋もれ、腹の下半分はなくなっている。残った上半分の腹はまったくの空洞である。風が吹いて、死骸はかすかに揺れている。静かな光景である。