聖痕

 林の中の小さな町の、私の家の裏手にのびるゆるやかな登り坂を、しばらく歩いてゆくと、もともと広くはないその道はやがていっそう細くなり、勾配も急になって、森の中を辿る山道になる。しばらく前にその町に移り住んでから、私はこの道が好きで、よく歩く。舗装はしてあるが、いささか傷みが目立つ。あちこちに小さな割れ目ができ、雑草が生え出ている。それでも軽装で歩けないほど荒れているわけではない。私は普段着のロングスカートのまま構わず登る。ほかに歩いている人をほとんど見かけない。十五分も歩くともう車の音はまったく聞こえず、およそ人間の生活の立てる音というものがしない。それでも、いつの頃までか、このあたりに集落があったようで、道のほとりに黒く朽ちた掲示板を見かけ、また、木立ちの向こうの崖の下に、もとは一家族が住める広さがあったと思われる家屋の残骸を見おろしたりもした。
 あるとき、その道を歩いていると、道の片側が土手のような具合に高くなっているところがあり、私の背丈よりもいくぶん高いというくらいであったが、ほとんど垂直に近いほどの傾斜であったので、その上の様子をうかがおうとすれば、いかにも高いところを見上げるような姿勢になった。そこには、あたりの森に生えているのとは異なる、庭木めいた枝ぶりの木々が見え、その幹のひとつに背をもたせかけて若い女が立っていた。女は私を見ていた。大きな目で私を見つめて笑っていた。白い、まったく飾り気のない、くるぶしまで隠れるほどの長さのワンピースを着ていた。古い宗教画に、そうした格好をした天使や聖女たちが描かれていた記憶がある。たとえ豪奢な金襴の外套を羽織っていても、その下は、そのような簡素な長衣であったりする。だが、この女が着ているのは、よく見ると白いネグリジェのようでもある。山中で人目をほとんど気にかける必要がないからといって、寝間着で出歩く者があるだろうか。しかも今は昼下がりという時間帯である。
 女は私を見つめるばかりで、挨拶も何も言ってこなかった。ただ、その笑顔はひどく人なつこく、およそ世間ではそのような笑顔を初対面の者に見せることがあるとは思えない、異様なばかり親しげな様子であったので、はじめから彼女は、私とのあいだに挨拶などというものをさしはさむ必要を感じていなかったのかもしれない。美しい娘であった。たしかに天使か聖女のようであった。だが、やはり古い絵の、傷んでしまった画面のように、その顔、そして着衣の袖から出ている白い細い手には、うっすらとした、しかしあきらかな、茶色い斑点がいくつとなくあった。大きいものは硬貨ほど、小さいものは米粒かそれよりも小さいほどで、なかには、血がにじんでいるらしく赤みを帯びている斑点もあった。痛ましくはあったが、それが彼女の美しさを損ねるようには思えなかったのである。木の間からさす光を浴びて、彼女の姿は明るく輝き、私の目には神々しくさえ映った。
 彼女がそのように親しげであるのなら、確かに私は彼女と親しいのであろうという気がして、やがて庭木めいた木々の向こうの、私の高さからは見えないところへ彼女が立ち去ろうとするそぶりを見せたとき、私はそれを招きととらえて、急な斜面のそこここに浮き出ている木の根を足がかりに、彼女のところまでよじ登ったのである。また彼女も立ち止まって、私の登ってくる様子をにこやかに眺めていたのだ。
 庭木めいた、といっても、よく手入れがされていたわけではない。枝のあちこちからつる草が垂れ下がり、蜘蛛の巣がかかり、ながらく剪定などされていないようで、樹型が乱れていた。それでも、その枝ぶりにどこか瀟酒な、趣味的な感じがまだ残っていて、山林に自生する樹木でないことはうかがわれた。斜面を登り切ってみると、そこは、もとは美しかったであろう、荒れた庭であった。いや、今なお美しいと言えないわけでもない。衰え果てた薔薇の茂みが、それでも春には花をつけていたらしく、小さいながらも鮮やかに赤い実をつけていた。かつては季節ごとの花を咲かせていたのに違いない、一年草の植え込みのかわりに、松虫草、吾亦紅、あざみ、撫子といった野の花が乱れ咲いていた。
 庭の向こうに木造の古い洋館が建っていた。あまり大きくはなく、かなり傷んでいる様子で、壁の白い塗料などは半ば以上剥げ落ちていたが、廃屋というほどではない。小ぶりなドアは、玄関ではなく庭へ出るためのものらしかったが、では玄関はどこにあるのか、分からない。建物の庭に面した側のほかは、鬱蒼と茂った木々に囲まれ、道など通っていないように見える。が、こちらからは見えないだけで、木々の間を縫って抜ける小道でもあるのかもしれない。娘は早足に庭を横切り、ドアを開けて、さっさと建物に入ってしまった。すぐにこちら側を向いた一階の窓が大きく開いて、彼女の笑顔が現れた。あきらかに、入ってくるよう促しているのだった。私は彼女を追って庭を抜け、ドアを開くと、建物の奥へと長い廊下が真っすぐにのびていた。ほとんどの窓が厚いカーテンでふさがれてでもいるのか、暗くてほとんど何も見えない。ただ、遠くのほうにひとつだけ、ごく細くではあるが外光がさし込んでいる窓がある。その光が照らしているのは、どうやら、廊下の天井が崩れ落ちている様子であるらしかったが、わずかな光であったから、はっきりそうと見定めることができたわけではない。娘の部屋はドアのすぐそばで、部屋のドアは少し開いたままになっていた。中に入ると、あまり広くない部屋の中央に質素なベッドが置かれ、窓は大きく開かれているにもかかわらず、外気で薄まっているとは思えない、強い消毒臭がした。彼女は庭に向かってベッドに腰かけ、顔だけこちらへ向けて笑った。私は笑い返してから、室内を見回した。若い女の部屋であることをうかがわせるものは何もなかった。病室の感じがあり、してみるとこの建物は病院か、療養所の類なのではないか。ただ、彼女のほかにこの建物を使っている者がいるのかは疑わしく思われた。はたして、まがりなりにも使用に耐える程度に手入れされている部屋が、この部屋のほかにあるのかどうか。この部屋にしても、壁にかけてあるカレンダーは、黄ばんで朽ちかかり、そこにある日付はもう三十年ほども前のものだ。ガラス張りの両開きの扉がついている白い棚、これは昔の病院の薬棚を転用したもののように見えてならないのだが、その棚の上に載っている、いかにも骨董じみた置時計は、早朝とも夕暮れともつかぬ時刻をさしたまま止まり、それがいつの日のその時刻であったのかも分からない。窓の枠や桟は外壁と同じ塗料で塗られているようだったが、剥落することなくきれいに残っていた。が、長さ一、二センチの、短く細い棒状の何かが、いくつとなく塗り込められていることに気付いた。小さな葉巻のようなもの、あるいはやはり小さな、細長い逆さの円錐形をしたもの。私にはどうもそれらが蓑虫に見えて仕方がなかった。蓑虫であるとして、塗料に厚く塗り込められ、残らず死んでいるに違いない。建てた頃に塗ったままのものであるなら、何十年と昔のものだ。だが、いくつかのものについては、蓑の口にあたる部分がわずかに塗り残され、そこから呼吸も、蓑への出入りもできそうに見える。まさか、生きているのではあるまいか。万が一そうであっても、強烈な消毒臭にやられて死ぬだろうとも思う。そうでないとしたなら、窓の内側にも付着しているからには、蓑から蛾が出てきて室内を飛び回っては彼女も困るだろう。とはいえ、毒を持った蛾ではないなら、さほど困らないのかもしれない。何にせよ、彼女の寝具は、質素なワンピースのような寝間着と同様、清潔で、白く輝くばかり美しく見える。そうであるなら、そのほかのことは、あまり細かく気にかける必要もない気はする。ここは山の中なのであるから、どうしたところで、さまざまの虫は入ってくるだろう。薬棚を転用したらしい棚の中は、ほとんど何も入っていないのだが、中ほどの段に、本が何冊か並べてある。いずれもひどく古い本で、黴でも生えているのか、紙それ自体の劣化によるものか、濃い茶褐色に変色して、背表紙の書名を読み取ることもできない。そんなものをはたして若い女が手にするかどうか。単に前々からそこに置いてあったものが、そのままになっているだけではないのか。だが、一冊は、いかにも読みさしの頁を開いたままで伏せた、といったかたちで、他の本よりもベッドに近いところに置いてある。書名はやはりほとんど読み取れないが、途中の二文字のみ「神の」と読める。宗教書だろうか。こんな場所での寂しい暮らしの、心の支えとしているものか。しかし私の想像力は、私自身の意志を出し抜く素早さで、その二文字の前後を、変に陰気な語をもって埋めはじめた。前方に一文字を補って「精神の」とし、ただちに後方にも付け加えて「精神の異常」とした。あるいはまた「悪神の」「邪神の」等々。私はあわててそれらの想像を振り払い、やはり宗教書であろう、と考えた。こんな寂しいところで、神とただひとり向き合ううち、心は澄み、俗人のあずかり知らぬ不思議の力がはたらき、やがてあのように美しく、神々しくなってゆくこともあるのだろうか。
 狭い部屋の中を眺めて回りながら、いかにも思案顔であっただろう私を、娘はあいかわらずの笑顔で見守っていた。ふと目が合うと、その笑顔が、私の落ち着きのなさを軽くたしなめるもののように感じられ、少し困って立ち止まると、ベッドに腰かけている彼女の隣に座らせてもらってもよいのではないか、という気がした。この部屋にはほかに腰かけるものがないのである。はたして、そこに座ってみると、彼女は特段の反応もせず、まるでそうするのがあまりに当然のことであるので反応せずにいる、といったふうであった。私は安心して、正面の、大きく開かれている窓の外の景色を彼女と一緒に眺めた。空は青い。秋の午後の光が木々の葉を輝かせている。小鳥が鳴いている。私には感じ取れないほどのゆるやかさで日は傾きつつあり、やがては山の向こうに沈み、明日にはまた昇って木々を輝かすだろう。小鳥たちは朝をことほぎ鳴くだろう。季節は遠い昔の日々と変わらぬ足取りで円環を歩み、たとえ人々の世で何が起ころうと、その波風がここまで及ぶことは決してなく、彼女は何も知ることがないだろう。私はいつまでもこうしていたかった。だが、やがて彼女は私のほうを向き、私という珍しい来訪者に、自分が見せたかったお気に入りのものをひととおり見せ終わった、というふうな満足の表情を浮かべていたので、私は、そろそろ帰ったほうがいいのかな、と思った。その矢先、彼女は立ち上がり、ドアまで歩いてから、にこやかに振り返った。私は彼女と一緒に建物を出て、庭を抜け、急斜面をずり落ちるような危なっかしさで降り、もとの山道に立った。娘はそれを上から見届けると、別れの挨拶もなく、なごりを惜しむような様子もなく、ただ上機嫌らしくはある顔をして、すっと庭木の向こうへ入っていき、見えなくなってしまった。私としては寂しかったのである。
 それから幾度か私はそこを訪ねた。嬉しいことに、どうやら歓待されているらしかった。また不思議なことには、私が来ることを娘は常に察するようなのである。あるときは、私が山道をそのあたりまで歩いてくると、最初の日とちょうど同じところに彼女が立って私を見下ろしていた。また別のときは、急斜面をよじ登って庭に入ると、彼女の部屋の窓がすでに大きく開いていて、そこから彼女が私を見ていた。庭に咲き乱れる野生の花々のなかで、花々を揺らす風に吹かれつつ、私を待ち受けるように立っていたときもあった。風の強い日で、そんな日にわざわざ訪ねる私もどうかしているが、建物の外に出ていた彼女のほうも奇妙といえば奇妙である。が、偶然が重なっただけのことかもしれない。
 いずれにせよ、私はそこでいつも幸福な時を過ごしたのである。曇りの日には空一面の無彩色のなかに、ほとんど白に近い明るい灰色から、薄墨色、暗い鉛色まで、さまざまな調子の違いがあること、また、重なり合う雲の層ごとに流れる速さが異なることなどの面白さに、見とれているうちに時が過ぎた。いや、それは彼女の部屋の窓からでなくとも、どこから空を見上げても同じであるはずだ。ただ、地上の慌ただしいもの、騒々しいものが、ここには何もなかった。部屋の主はときおり不思議な微笑を浮かべるのみで、何ひとつ語らず、ベッドの上の私の隣に静かに座っていた。すると、雲のわずかな動きの、思いがけない力強さに気付いたりもするのだ。風の強い日ではなくても、町の中で見上げるときよりもいきいきと、生きもののように雲が動いているように感じた。一方、時間の流れはここでははるかにゆるやかで、ほとんど止まるかに思われた。時の止まったなかで雲が流れてゆく。雨の日には雨を眺めた。はるかな空の高みから、水滴が、際限もなく落ちてくるという、ただそれだけのことが面白かった。静かな森に、雨音ははっきりとした響きをたてたが、響くほどに、いっそう静けさを感じた。一人きりであれば、もしかしたら寂しかったかもしれない。だが、この単調な愉しみを、飽きることなく私と分かちあう者がいることが、私をいっそう愉しくした。それについて言葉を交わしはしなかったが、彼女もまた幸福であることは伝わってきた。窓敷居の上をかたつむりが一匹這っていったときも、私たちは無言のまま、その可憐な生きものがやがて窓枠の外へ去っていくまでを、共に視線で追い続けたのである。かたつむりも面白かったが、二人が同じものを見つめ、この他愛もない愉しみに一緒に興じているということ自体が、面白かった。言葉を介する結びつきよりも、言葉を介さないことによって、私たちはより親しく結ばれていた気がする。彼女のもとで私を幸せにしていたものは、結局、ほかの何よりもまず、そのことであったようにも思う。
 私の家の裏手から、ゆるやかな登り坂を歩き出すとき、隣の家で庭いじりをしている奥さんとよく目が合い、挨拶をした。そのまましばらく立ち話をすることもあった。陽気で親切な人であった。あるとき私は何気なく、この坂をずっと登った先に、古い病院か療養所のような建物がありますね、と言った。すると、にわかに彼女の顔がこわばったのである。そして訝しむような目つきで私を見た。建物のことを訝しんでいるのか、建物の話をしている私のことを訝しんでいるのか、分からなかった。いずれにせよ気まずく、どう話を続けたものかと困っているうち、彼女の方から口を開いて、私にはちょっと分からないねえ、と言った。その口調は普段と変わらないようだったが、表情はなお落ちつかなげであった。私は、そうですかと軽く流して、話を変えた。きのこがよく採れるのはどのあたりでしょうね。すると奥さんはもとの明るさを取り戻して、そういうのは知っていても教えないものだよ、私だって教えてほしいよ、と笑った。そして、きのこ狩りに行くならこのあたりの山を歩き慣れた人と一緒に行くように、念のため熊よけの鈴を身につけるように、などと助言してくれた。私はお礼を言ってから別れて、再び坂道を登りはじめたが、先ほどの彼女のおかしな様子はずっと気にかかっていた。
 また別の日、用事で町の集会所に行ったとき、窓辺の椅子に座ってのんびりと茶を飲んでいたお爺さんから、いよいよ紅葉だね、と声をかけられた。そのまま世間話をするうち、私は先日と同様に、森の中に病院か療養所のような古い建物がありますね、と話した。途端に、彼の様子もおかしくなったのである。老いて垂れ下がったまぶたの下に細くなっていた目が、大きく開かれて、私の顔をまじまじと見た。建物に関してであるのか、私に対してであるのか、やはり分からなかったが、訝しむまなざしの内に、恐怖の色があるようだった。彼はしばらくそのまま黙っていたが、やがて、知らんなあ、と言って顔をそむけてしまった。私は紅葉のことに話を戻した。するとお爺さんももとの笑顔に戻って私と話を合わせた。あたかも、何も聞かなかったかのように、まったく何事もなかったかのように。だが、何事もなかったことにしようとする意志の異様さ、意図のはかりがたさが私の気分を暗くした。
 それから後、機会を捉えては、何人かの町の人々に、それとなくあの建物のことを尋ねてみたが、みな一様に口を閉ざしてしまうのだった。こわばった顔つき、訝しむまなざし、まなざしの奥の恐怖の気配、それが建物に対してであるのか私に対してであるのか判断しがたいところまで、等しく同じであった。つまるところ、私は何か、ありうべからざるものの話をしているらしかった。あるにもかかわらず、ないことにしたいと彼らが思っているもの、あるいは、ないにもかかわらず、あると私が思っているもの。たとえば、私が親しくしているあの女が、じつは幽霊だとしたならどうだろう。だが、幽霊であるなら、ありうべからざるとはいっても、それについて彼らと話し合うということが、必ずしも不可能であるとは思えない。幽霊が出ると噂される古い建物など、世の中にいくらもあるだろう。しかし彼らのまなざしは、そもそも話し合うことができないものに向けられているようだ。幽霊であれば、怖いなりに、それが怖いものであると誰もが理解できる。ところが彼らの表情に浮かんでいるのは、むしろ理解不能なものへの怖れではないか。話し合いの余地なく、自分たちの世界から閉め出してしまおうとする。それがもしも建物でなく私にじかに向けられているのであれば、狂人を見る目つきというのがそれではないか、という気さえする。だが、私はそんな、おかしなことを言っただろうか?
 私としては、ごく普通の調子で話しているつもりなのに、あの不思議な女のいる建物のことに話が及ぶや、にわかに奇怪な語彙、異常な文法をもって語り出し、しかもそのことに自分ではまったく気付かない。というのも、その瞬間には私はすっかり狂ってしまっているからで、狂ってしまった者にはもう自分が狂っていることが分からない。そんな極端な可能性をさえ私はつい考え、ぞっとして、あわてて頭から振り払った。ともあれ、この件については当面、町の人々の前では話すまい、と心に決めた。小さな町である。不穏なことを口走る人物だなどと噂が広まっては、どんなに暮らしにくくなるかしれないと、怖れたのである。だが、いささか遅すぎたようだ。道を歩いていて、向こうから、親しいというほどでもないが、この町に来てから幾度か軽く言葉を交わしたことのある人物が歩いてきた。私は挨拶をしようとしたが、相手は妙な顔をして目をそらし、気付かないふりをしながら通りすぎてしまった。いや、もしかしたら、はじめの一瞬は私に気付いていたらしかったのは、私の勘違いで、じつは少しも気が付いていなかったのかもしれない。何しろ、ほんの数回、ちょっとした言葉を交わしたことがあるというだけなのだから、忘れてしまっていてもおかしくはない。つとめてそう考えようとしたのだが、しかし、似たようなことがそれから立て続けに起こった。買い物に行った先で、駅の待合室で、町の集会所で。そればかりか、こちらを見ないふりをしながら、横目で見つつ、小声で何か話をしている人々さえいた。すべて思い過ごしなのだろうか。どうもそうとは思えない。町じゅうの人々が私の噂をしている。私はすっかり恐ろしくなった。隣の家の親切な奥さんさえ、通りかかった私に向ける笑顔のうちに、暗い疑心の影がある。
 私は頭を抱えて考え込んだ。人々が疑っているのが、私の正気についてであるとは限らない。たとえば、やはりあの建物が幽霊屋敷であるとしよう。しかし町の人々はそれについて私と話し合うことができない。何らかの理由で、昔からの住民以外には、その話をすることが禁じられている。そして、話しさえしなければ、新しい住民が幽霊屋敷を勝手に探し当てることなどないと、固く信じていた。山道よりも一段高いところ、しかも奥まったところにある建物が、そうやすやすと見つかるものではないし、見つかったとしても、荒れた庭を抜けて建物の様子をうかがう酔狂な者が滅多にいるとも思えない。病院か療養所のようである、というのは、離れたところから眺めているうちは分からないことだ。そこまで踏み込んでしまった私は、もはや町の人々にとり耐えがたい存在になってしまった。秘密の結界を踏み越え、呪われた存在となってしまったのである。この想像もまた私を暗い気分にしたが、正気を疑われるよりはまだしもである。もしもこうした事情が彼らの側にあるものとして、どうにか彼らの心をなだめ、歩み寄りをはかることはできないものか。それは、正気を失った者がみずからの正気を証明しようとすることよりは、まだしも、見込みのある試みだと私は思うのだが。しかしこの場合、あの若い女、今や私にとりかけがえのない存在である彼女は、幽霊だということになってしまう。
 もちろん、幽霊というのも可能性にすぎず、しかも荒唐無稽の部類である。事実は私の考えもつかない、しかし明らかになってみれば、なるほど、いかにも世の中にありそうなことだと、納得されるものなのだろう。もしかすると苦い幻滅、絶望の苦しみとともにそう納得されるのかもしれないが。いずれにせよ町の人々の様子からして、私がこれまであの娘に対して抱いてきた思いとは相容れない、暗い秘密が存在するのはかなり確かなことのように思われた。いや、少なくともそういう疑いの心が、すでに私のうちに芽生えてしまった以上、今までのように澄んだ気持ちで彼女に会うことは、もはやできないのだった。その秘密を人々から聞き出すことは当面は難しいと思われるので、私は、彼女にじかに尋ねてみることにした。だが、一度たりと口を利いたことのない者が、何を答えるというのか。しかも彼女自身の不利になりかねない事柄について。しかし言葉はなくとも、顔つきの変化や仕草から、ある程度の察しをつけることはできないだろうか。これまで私が彼女と心を通い合わせてきたのは、常にそのやり方であったのだ。
 私は山道を登った。前回の訪問から少し日数が経っていたので、紅葉はいっそうあざやかに、燃え立つばかりであった。陽光を透かして、赤、黄色のステンドグラスのようでもあった。しかし私の足は重く、これが日頃通い慣れた道であるとは信じがたいほど遠く、けわしい坂であるかに感じられた。庭木の下の急斜面をどうにか登りきり、今は松虫草や吾亦紅に加えて、竜胆の青い花がそこここに咲いている裏庭に立ち、建物のほうを見た。彼女は自室の窓から、すでに、私がそちらを見るよりも先に私を見ていた。やはり私が来るのが分かるのではないか。いつものように人なつこく、美しく笑っていた。このうえなく優しいまなざしであったが、そのまなざしに、私は射すくめられたように感じた。私が疑心を抱いてここへ来たことを、見抜いているのに違いなかった。まるで幽霊か、おぞましい魔物のように彼女を見なして、その化けの皮をはぎ取ってやろうというばかりの、暗い思いを胸に隠してきたことを。恐ろしい目だ。見抜かれたことが恐ろしいのではない。あのような目を私は世間の人々のうちに見かけたことがない。深い優しさ、天真爛漫さと、すべてを見透かす力とを併せ持つ、不可思議のまなざしだ。私は、あれこれと用意してきた問いかけの言葉、そのなかには誘導尋問のような、念入りに練り上げ、こしらえたものもあったはずなのだが、おおかたを忘れてしまった。いくらか覚えていたものも、すでに遠い世界の、随分と昔の、もうどうでもよいものになってしまったように感じた。かわりに、おのれの浅ましさを恥じる気持ちがわき上がってきて、あふれんばかりに胸を満たした。情けなさに、その場に立ち続けているのが堪えがたいほどであった。にもかかわらず彼女のまなざしは依然として優しく、むしろ底なしに優しかった。私は、赦されているのであった。もう二度と罪を犯すまいと思った。窓の内の薄暗がりの中で、輝くばかりに見える純白の衣をまとい、純白の寝台の上にこちら向きに座っている彼女は、おごそかな美しさで、あたかも聖龕の内で栄光の玉座についている姿の聖像のようだ。私は、疑い得ないものを疑ったのだ。彼女は正しい。町の人々が間違っている。彼らがこの女について、また私について何やら考えめぐらしていることが、いかなることであるのかを、もう知ろうとも思わない。いずれつまらぬことに違いない。とはいえ、彼らももともとは温和で純朴な、愛すべき人々ではあるのだ。しかし、哀しきかな、狂っている。
 それから数日後のことだった。私は自分の手首の皮膚に、それまではなかった、しかし見覚えのあるものを見た。うっすらとした茶色の斑点である。ごく小さく、米粒かそれより小さいくらいだが、すでにいくつかあり、これから数を増やしながら大きくなっていくのだろう。私は欣喜した。私はこれをあの娘と共有しているのであり、ゆえにこれは聖なるものである。彼女の不思議、彼女の神秘に、これからはじかに触れることができる。病とどう付き合っていけばよいか、彼女のもとへ行けば教えてもらえるだろう。私はもう、あちらの世界の側の者なのだ。あの建物に私も住まわせてもらおう。あの聖域で、美しい微笑の智恵のもとで、静かに、永遠にこの世を離れて暮らせればよい。