紙片

 亡き祖母がながらく守ってきた古い土蔵の中で、私は妙なものを見つけた。埃だらけの棚の上、何が入っているやら知れぬ木箱や壺の陰に、一枚の紙片が落ちていた。置かれていたのではなく、落ちていたのだと思うが、もしかするとわざと無造作に、何でもないもののように置かれたものであったかも知れず、私には分からない。手のひらほどの大きさの紙片である。黄変し、朽ちかけ、もしかすると触れただけで破れてしまうのでないかというほど脆くみえた。だが私がそれに触らなかったのは、ほかに理由があった。見るからに汚かったのだ。いや、衛生上のことではない。ただ印象として、おぞましい、気味の悪い、穢らわしい感じがあった。紙片の端に何か液体が付着したのに違いない汚れがあり、同じ液体であろう飛沫が点々と全体を汚していた。赤茶色をしたそれは私にはどうしても血痕に見えた。乾ききったその染みが、たとえ血液によるものであろうとも、いまさら衛生上の問題がさしてあるとは思えなかったのである。が、いかにも不気味であった。私は胸が悪くなった。にもかかわらず、紙片を眺めつづけていた。暗い土蔵の中で、そのあたりだけは、小窓からさしこむ西日を浴びて明るかった。それで、紙片の上にこまごまと書きつけられている、褪せた青インクの文字をさえ、私は丹念に読んでいたのである。
 ありふれた日常の品物の名が並んでいる。買い物の覚え書きではないか。蜜柑、人参、鍋、麻紐、煙草……。何ということはない。中に「○○家に届け物」「△△氏の件で相談」などともある。いつの時代の日常だろう。かな遣いと字体から、私の生まれるはるか前であろうと考える。汚い赤茶色の斑点の下に、その筆跡は淡く、細く、どこか神経質らしい印象を受ける。かすかに震えているようにさえ見えるのだが、病人の筆跡ではあるまいか。しかし買い物や届け物をするのであれば、歩けぬほどの重病人ではあるまいけれども、私は、薬の力を借りてようやく日常の用を足すことばかりはできる者の、なかば幽霊のような足取りを想像した。あるいは、これはまったく馬鹿げた想像かもしれないが、たとえば、狂人があてもなく書きつけた、実際の用に供されることは一度たりとなかった覚え書きではなかったろうか。そうでないとしても、薄幸の人のものであろうとはどうしても思われ、その不吉な気配は、ほとんど正視に耐えないほどのものだったにもかかわらず、目をそらすどころか、どうしたことだろう、私はそれを凝視しつづけていたのだ。魅入られていたのである。得体の知れない魅惑、強いて言うならば、懐かしさに似たもの、いや、まさに懐かしさであるのに違いない、しかし普通のそれよりもはるかに強い力を持つものに、絡めとられていたのだ。西日は次第に赤みを増し、紙片の汚れていないところをさえ、淡い血の色調に染めはじめていた。
 物品の名の羅列の中に「アカンボの玩具(ダルマ)」とあった。私は、幼い頃に住んでいた家の物置部屋のことを思い出した。昼間でも薄暗いその部屋の片隅に、赤ん坊の遊ぶ起き上がりこぼしがあった。桃色の球状の胴体に、それよりもひとまわり小さな球状の、桃色のかぶりものをした幼女の頭部が載っている、プラスチックの達磨である。それは当時の私よりもさらに幼い頃の私が遊んでいた玩具であった。今の私は、赤ん坊の頃のことなど思い出せないが、その頃の私は、ぼんやりとではあっても覚えていたはずだ。覚えていたはずである、ということだけを今の私はかすかに覚えている。そして当時の私は、さらに幼い頃の記憶を、何か厭うべきもののように感じていた。薄暗がりの中、起き上がりこぼしはすでに埃をかぶって灰色にくすんでいた。私はそれを見てぞっとしたのである。その嫌悪感の正体は、おそらく、自分がまだ自分になりきらなかった時代、言葉も知らず、自分の体を自分の意のままに動かすこともままならぬ、わけの分からぬものであった時代への、恐怖感であった。当時の私は、その記憶に封印してしまいたかったのだ。……血のにじんだ紙片に記された「アカンボ」とは、私のことではないのだろうか? 証拠は何もない。そこには「ダルマ」と書いてあるだけである。それにまた、紙片は私が生まれるよりずっと前のものではなかったのか。だが、それにも証拠はないのである。単に、かな遣いと字体から私がそのように想像したまでのことだ。ただ、とにかく古い、きわめて古いという印象は受ける。そして私が赤ん坊であった時代とは、私の個人史の中で、最も古い時代ではあるのだ。そこで私は、紙片の古さと、私の年齢との間に、とりたてて矛盾を感じはしなかった。幼い日には嫌悪を覚えたものに対して、今の私は、まったく思い出せなくなっているにもかかわらず、不思議に憧れていた。何も記憶に残っていないにもかかわらず、懐かしかったのである。はじまりの混沌に引きずり込む、恐るべき懐かしさである。だが、いまだ言葉なく、私が私でなく、誰でもなかった、その時代にあまりに強くしがみつきつづけることは、私が崩壊することを意味しないだろうか?
 母に紙片を見せて尋ねれば分かるかもしれない、と思った。しかし、そのような薄幸の人のことを、母はかつて気配だに私に伝えたことはない。全然思い当たらないと答えるかもしれない。しかしそれよりありそうなのは、筆跡はつい先日まで存命であった祖母のものであり、もちろん病人でも狂人でもなく、染みはどうしてできたか分からないが、ありふれた染みにすぎない、という答が返ってくることである。それはまあそうであろう。しかし私は思うのだが、母ははたして本当に私の母であろうか?
 いや、そうであるには違いない。しかし記憶をはっきり辿れるかぎりの最も遠い過去において、母は、たしかに今の母と同一人物であるにもかかわらず、今の母ではない。若かったというだけでもない。彼女は、聖なるものであったのだ。ほかのどの女性とも違っていた。なかばはこの世のものでない、大いなる存在であったのだ。もちろん、今なお優しい母ではあるが、私と同じくこの世のひとりの人間であるにすぎない。本人にこんなことを言えば、どんなにか気を悪くするであろうけれども……。
 さらに記憶をさかのぼり、もはや思い出せぬほどのところに辿りつけば、原初の光の中で、母はいっそう神さびたものであったろう。それが真実の私の母であった。私は、おおもとの世界から正しく発した時間の流れから、いつの間にか外れてしまって、別の時間の流れの中に迷い込んだのではないだろうか。ある時期から、私の世界は、私の人生は、すべて偽物で――。
 ああ、そんな気がしていたのだ、たしかに、ずっと前から! 私はいつの間にか、すべてを失ってしまったのだ。戻ろう。時間の流れをどこまでもさかのぼっていこう。この紙片をたよりに、記憶の中に点々と、はるか遠くまで滴り落ちている血痕をたどって、やがてそれが鮮血となるところまで。そこで私は懐かしい死者と出会い、母は聖なるものとなり、世界は本来の光輝を取り戻す。だが、そのとき私はすでに私ではなく、言葉を持たず、何もできず、誰でもない、わけの分からぬものになりはてているのだろう。

 七歳の夏から住みはじめた森のなかの家で、はじめて迎えた冬の、ある日の朝早くのことである。それまで住んでいた街なかの家よりも、ずっと寒い。なにしろ家の外には、街の暮らしではほとんど目にしたことさえない雪が、この数か月来降りつづき、深々と積もっているのだから。彼女の母が起こしにくるとき、部屋のストーブもつけていくのだが、彼女は寝床に頭までもぐり込んだまま、なかなか出ようという気にならない。部屋がじゅうぶんに暖まるまで少しかかる。そうするうち、またうつらうつらと眠くなる。その朝も少女はそうして寝床にぬくぬくと丸くなっていたのである。――すると、部屋の窓を外からこつこつと叩くものがあった。少女は布団にもぐったまま、掛布団のへりをほんの少しだけ上げて、そちらをうかがい見た。
 母が開けていったカーテンの向こう、窓の外の景色は、まだ日の出前の、わずかに空が青みをおびたばかりの暗がりのなかにあった。部屋の灯りのほうがずっと明るく、その光に照らされて、一人の少年が立っていた。彼女と同じくらいの年頃である。彼女にはそれが誰だか分からない。色白の、丸いやさしい顔立ちをした、澄みきった大きな目の少年である。その瞳の美しいことは、あたかも冬の夜明け前の星の光を宿しているかのようだ。真っ白の、ふわふわとした外套を着て、同じ素材でできた帽子をすっぽりとかぶっている。そして小さな手を愛らしい拳に握って、ふたたび窓ガラスをこつこつと叩いた。叩きながら、美しい目で少女をひたと見つめた。なにか訴えたげな、しかも哀しげにもみえるまなざしが、気にはなったものの、彼女はなおも寝床から出ようとはしなかった。眠くもあったし、また、眠いからには、それが夢うつつの幻ではないかとも思ったのである。幻であればよいとも思ったし、やがて幻だということにしてしまって、彼女はふたたび眠った。なかなか起き出してこない娘を叱りにきた母の声に、ようやくはっきり目をさましたときには、窓の外には誰もいなかった。
 少女がまだ顔を知らない、あるいは覚えていない、近所の子供のいたずらだったのかもしれない。そう考えるのが一番自然であったはずだが、不思議と彼女はそれは思いつかなかった。朝食を食べながら、ずっと少年のことが気にかかっていた。なにを訴えたかったのだろう。寒かったのでないか。寒くて、部屋のなかに入れてほしかったのでないか。そうだとしたら、まなざしが哀しげであったのももっともなことだ。次第に彼女は、自分が悪いことをしたような気になってきたのである。自分の怠け心のせいで、気の毒な子を助けてあげられなかった。あの子は、どこへ行ってしまったのだろう、この雪のなかを。少女は、星を宿したような少年の瞳を思い返した。近所の子供のいたずらということを思いつきもしなかったのは、その瞳のせいであったのかもしれない。
 朝食を終えて、外に出た。学校へ行く道をすぐにはたどらず、自分の部屋の窓のほうへまわってみた。ようやく昇ったばかりの日の光に照らされた雪の上に、足跡は残っていなかった。すでに埋もれてしまったのか、そもそもなかったのかは分からない。ふと、かたわらの庭木の低い枝に、蛾の繭がひとつついているのに気がついた。蛾の種類は分からないが、蚕の繭に似ており、しかしそれより小さい。葉の落ち尽くした、黒い裸枝の上で、凍てつく風にさらされている、この小さな丸いものは、いじらしく痛々しい。模様も色もなく、真っ白な、雪のような白さの糸でできている。少女は、少年の外套と帽子とを思い出した。
 さきほどからの、少年への罪の意識が、少女の心に気味の悪い幻想を生みつけた。あの子は、この繭のなかにいるのではないか。寒さのあまりに、あの子はこんな姿に変身してしまったのではないか。私が助けなかったから。こんな小さくなってしまって、繭のなかでじっと寒さをしのんで、やがてそこから出てきたときには、情けない虫けらの姿で、小さな翅であてもなく飛びまわり、さまよったはてに、みじめに死んでしまう。それはありえないことだとは彼女には思えなかった。あってほしくないことではあったが、幼い子供には、充分にありうることのように思えたのである。
 少女は逃げるようにそこを立ち去った。そして、なるべくそのことは考えないようにした。実際、学校で勉強したり、友達と遊んだりしているうちに、そのことは忘れてしまった。しかし家へ帰ってきて、庭のそのあたりが目に入ると、また暗い気分になった。自分の部屋で、窓越しにその方向を見ても、やはりそうなった。目をそらすとかえって怖くなりもした。何か不吉なものが、彼女を罰しにくるような気がするのだったが、それは他ならぬ彼女自身の幼い良心の影が、彼女を苦しめるのであったかもしれない。だからといって、毎朝、すぐに寝床から出ることができるようになったわけでもなかった。あいかわらず布団にくるまって丸くなりながら、それまでのように無邪気にぬくもりを楽しむわけでもなく、後ろめたさをおぼえながらの朝寝坊であった。少しずつ日は長くなり、雪の降り積もっている森のなかにも、彼女の家の庭にも、明るい木もれ日がさすようになったが、あの繭のあたりだけは、少女には、暗く寂しい真冬の頃のままであった。そのようにして、やがて春が来たのである。
 おおかたの雪は融け、落葉樹の芽はふくらみ、はやばやと花をつけはじめた枝もあった。地面には柔らかな草の芽が、はにかみがちに双葉を広げはじめていた。朝、彼女の母が起こしにくるとき、部屋のストーブはもうつけない。カーテンは開けていく。その時刻は冬と変わらないが、日は昇りはじめている。少女の心は弾み、母に叱られるまでもなく寝床から出て、窓を開けた。彼女の知らない花の香りがした。どこに咲いているのかと見回し、こぶしの花に目をとめたとき、そのすぐそばの木の枝の、あの繭が見えた。春の喜びのあまりに、いつもなら気にかかってならないそれのことを忘れてしまっていた。目に入ればやはり不安になったが、今朝は何か繭の様子が違っている。どうしたのだろう、またいっそう怖がらすことが起こっているのでなければいいがと、心配しつつ、確かめるために窓から身を乗り出し、目を凝らした。
 繭の頂に、穴が開いている。きれいな丸い穴である。そこから繭の中が見える。からっぽである。夜のあいだに出ていったのだ。ふわりと飛び立つ小さな白い蛾の幻影を追いかけて、彼女は空を見上げた。こぶしの枝の向こうに、まだいくつか輝きを残している星々の下を、彼はどこまで飛んでいっただろう。やわらかに霞む春の空である。それは地上の春と同じようにうらうらとして愉しげで、そうした空を渡っていくのもまた幸福なことであるように思われ、少女の夢想は彼を追ってみずからも高く舞い上がった。

孤客

 彼がまだ幼い子供だった頃のことである。彼の住んでいたあたりはよく雪の降るところであったが、その夜はことに降りつもり、集落からやや離れて建つ、彼の生家である大きな屋敷のまわりは、深々と雪に覆われ、しかもさらに降りつづいて止む気配がなかった。
 幼い彼が食事を終えて、そろそろ寝ようとしていたとき、屋敷に突然の来訪者があった。若い旅の女であった。この雪に歩をはばまれ、宿場町に辿りつけぬまま、途方に暮れてさまよううちに、お屋敷の灯りを見つけた、どうか一夜の宿を貸してほしい、とのことである。どういういきさつで、こんな厳しい季節に女一人で旅をしているのか分からなかったが、身なりを見るに身分いやしからぬ様子、何かやむにやまれぬ事情があるのだろう。家の主人は快諾し、使用人たちに彼女を奥の客間へ案内するよう命じた。主人の一人息子である幼い彼は、廊下を使用人たちに伴われて歩いてゆく彼女の姿を見た。なんと美しい人だろうと思った。生まれてほんの数年にすぎない彼の記憶のなかに、それほど美しい女の姿は見当たらず、そればかりか、はるか後年になってもなお、彼女ほどに美しい女の俤を一度たりと目にしたことがないと彼は思っていた。
 彼らの後ろ姿が廊下の奥を曲がって消え、そろそろ客間へついたかと思う頃、にわかにそのあたりが騒がしくなり、やがて使用人の一人が駆け戻ってきて主人を呼んだ。二人が客間のほうへ行き、なおしばらく騒ぎが続いたあと、彼らみながこちらへ戻ってくる物音を子供は聞いた。だが、乳母が、お坊ちゃんもう寝ましょうと手を引くので、やむなく寝室へ向かった。寝室へは人々が戻ってくるのとは別の側の廊下から行くのである。だが、もれ聞こえてくる人々の声から、おおよそのことは分かった。あるいは、後になって彼らから聞いた話を、幼い記憶のなかで継ぎ合わせたのかもしれず、もしかしたら、事実とは異なる、子供の夢見たものがつけ加わっているのかもしれないが、彼自身は、大人になってからも、年老いた今となってもなお、すべては事実であったと信じている。
 屋敷には、これはたしかに事実なのだが、開かずの間があった。いつからそうなったのか、知る者はその頃にはすでに誰もなかった。客間への廊下の途中にその部屋はあったのである。もちろん客にそのような話はしない。ところが、旅の女はふとその部屋の前に立ち止まり、扉に触れたのだという。あるいは扉に触れさえせず、ただ手をかざしただけだともいうのだが、すると、かたく閉ざされているはずの扉が、音もなく開いたのだ。部屋の内は暗闇で、誰にも何も見えず、また誰もが、恐ろしがってあえて見ようともしなかった。ただ目をそむけながら、最も気丈な男が、すぐさま扉を閉め、女をとりおさえた。使用人たち、また呼び出された主人も含めた彼らの心に、昔ながらの迷信的な怖れが取り憑いた。この女は魔物だ。叩き出せ。女は多少の抵抗を見せたが、思いのほか早々と諦めた様子で、おとなしく彼らに従った。彼女を玄関の外へ引いてゆくのは、彼ら自身が苦労したと語っていたほどには、たいした仕事でもなかったのである。夜の吹雪のなかを、よろめきつつ、どこへというあてもなく女が歩み去ってゆくのを見届けて、彼らは玄関の戸締まりをすませた。それから、もともと悪気のない人々である彼らは、自分たちが行ったことが正しかったのか、少しばかり心配になった。だが、もしもあれが魔物でなかったとしても、家というものはこの屋敷のほかに、ないわけではないのだから、どこかで、どうにかするだろう、などと話し合った。しかし、あの開かずの間の扉が、再び、押せども引けども開かなくなっていることに気づくや、また彼らの心は恐怖に覆われた。まだ誰も扉に鍵をかけてはいなかった。鍵のありかは誰も知らず、ひとたび開いてしまった扉をどう施錠したものかと話しはじめた矢先のことだった。
 ただ幼い子供だけが、暗い寂しい雪野原へと追いやられた女の身の上を、哀れに思い続けていたのである。子供には、大人たちの怖れがよく理解できない。開かぬ扉を開けたというまでのことではないか。開いた扉がまた閉じたことも、どこに不都合があるのか分からない。彼はただ、雪のなかを遠ざかる女の後ろ姿を思い浮かべ、胸のしめつけられるような悲しさをおぼえるのみだった。が、やがて幼いまぶたは重くなり、すべてを忘れて寝入ってしまった。
 真夜中に、不思議に快い匂いがして、闇の中で目が覚めた。母の化粧台に漂う白粉の匂いに似ているので、母さま、と小声で呼んでみたが、返事はなかった。誰もいないようだった。ただ、寝室の部屋の扉が細く開いているらしかった。子供は部屋の外に出てみた。屋敷は寝静まり、廊下は真っ暗だった。ほのかな匂いが、闇の奥から招いている気がして、彼は歩きはじめた。灯りもなしにどうやって歩いたのだろう。むしろ闇の中をゆるやかに落ちてゆくようだったと、彼は後々までも記憶していた。そして、どのようにして寝室に戻ったのかについては、まったく覚えていないのだった。たしかに翌朝にはいつものとおり寝室で目が覚めたのである。といって、彼は決してこのことを夢だなどとは思っていなかった。
 幼い彼は、開かずの間の前に立っていた。仄明かりで自分の居場所を知ったのだが、それがどこからの光であったのか分からない。扉のそばに、あの美しい女が佇んでいるのを見て、彼は嬉しくなった。雪野原で凍えずにすんで本当によかったと思った。女は、ほかの誰にも聞こえない、子供にだけ聞きとれるほどの、小さな、静かな声で語った。自分は、百年あまり前に行方知れずになった、この家の娘である。今宵、ようやく帰ってくることができた。さきほど家の者たちを驚かせたのは申し訳なく思う。この部屋は私の部屋である。とうに亡くなられた父さまが、いつの日にか私が戻ってくるのでないかと、この部屋を何も変わらぬままにしておいてくださったのだ。さきほど扉を開けたときに、それを見た。私のほかに誰も入らぬよう、父さまは鍵をおかけになった。私だけがこの部屋に入ることができる。お前は優しい、よい子だから、お前にだけこのことを教えた。誰にも言わぬように。
 そして女は、白い細い手で、扉にふれるかふれぬかに、扉が音もなく開くのを子供は見た。部屋の中は暗闇であったが、母の部屋にいくらか似た、女の部屋らしい柔らかな空気が流れ出てくるのを感じた。それから彼女は内側から扉を閉め、鍵のかかる音がかすかにした。

衛兵

 幼い日に林のなかで見たもののことを、彼は今なお思い出す。記憶のなかで、林の奥へと続く道をたどるとき、それがそのまま自分の心の奥深くへ向かっての道のりであるように感じる。彼をとりまく木々の梢は日の光を透かしてきらめき、風にざわめき、緑の波のなかを歩むようであり、また、緑の渦にのまれて林の奥へと引き込まれてゆくようでもあった。そのとき幼い彼はひとりきりであった。彼のほかにただの一人の人影もなかった。どうやって迷いもせずに道をたどり、再び戻ってこられたものだろう?
 彼は当時、林のなかの小さな集落に住んでいた。小学校に入るときに大きな街に引っ越したので、これはそれより前のことである。
 道は細い砂利道で、進むに従いさらに細くなった。彼はまったく怖れなかった。ふと、彼は道からそれて木立ちのなかに歩み入った。そのまま木々のあいだを歩いていった。人間の作り出したものが何ひとつ見あたらない景色を、おもしろく思いながら歩きつづけた。やがて、あまり高くはない崖の下を通りかかると、そこにごく小さな洞があいているのを見つけた。彼のような子供だけが、腹這いになってようやく入れる大きさしかない洞である。入ってみると、狭いなりに、子供が立って歩けるだけの高さと広さは充分にあった。天井に小さな割れ目があり、崖の上に生えている木々の枝が見えた。枝越しの日ざしが洞のなかにも少しばかりさし入り、壁の一か所を明るくしていた。そこが明るいのは日ざしのためばかりでもないことにすぐに気がついた。楚々として白い、あるいは透明な、美しく鋭い先端を持つ六角柱状の鉱物の結晶が、いくつとなく群がり、きらめいていたのである。日のあたっていないところも、その暗がりに目をこらしてみれば、すべての壁面が、床から天井にいたるまで結晶に覆われているらしかった。驚き、うっとりしながら、再び壁の明るいところへ目をやると、幾本とも知れない水晶の剣に守られるようにして、それら群晶のうちに身をひそめている不思議なものに気がついた。すみれほどの丈の草がひともと生え、可憐な花を二、三輪咲かせている。だが、その草のすべては水晶でできていたのである。花も茎も葉もすっかり透きとおって光っている。しかもまったく自然で、とても作りものには見えない。子供は顔を近寄せ、目をこらした。葉脈のこまやかなこと、茎の細くしなやかなこと、花びらの信じられないほどの薄さ、しかも限りなくたおやかな曲線を描きつつ広がっていること。それらは何者かの手によって石から掘り出されたものではなく、どうしても、その不思議な植物自体の、内からの力、生命によって支えられているように見えるのだった。
 どうやって子供ひとりの力でその水晶洞にたどりつき、不思議な花を見出すことができたのだろう。妖精たちの手引きではあるまいか。そうに違いないと、大人になった彼は本当に思っている。幼い頃にはそんなことは思ってみもしなかった。ある程度大きくなってからである、木々のざわめき、揺れる木もれ日のうちに、何ものかの気配をおぼえるようになったのは。彼はそれを妖精だと思っている。それを人に話せば笑われることは分かっている。しかし彼自身のうちにはそれを疑う理由が見出せないのである。人々が疑うのは、人々の側の理由であって、彼の側のものではない。何か理由というほどのものがあって、それを妖精だと信じているわけでもない。ただ、目には見えないが、不思議な生気に満ち、おそらく善意の存在であろうそれを、妖精と呼ぶのが一番しっくりくるというのみである。幼い頃の彼は、ほとんど誰とも話さない子供であった。内気というのでもない、ただ、一人いるのが楽しく、他の者と話す必要をさして感じなかった。また、幼い彼には必要というほどの必要もなく見えるのに、常に誰かと話をしていたがるらしい、それらの人々のことを、自分とは少し違った生きもののように思っていたからでもある。それは大人になった今でも本心のところでは何も変わってはいないのだが、ともかく、誰とも話さない子供であるということを、妖精たちは分かっていて、それで水晶洞と花のことを特別に教えてくれたのだろう、と彼は思っている。そればかりではなく、妖精たちは、目には見えないけれども、幼い彼といつでもともにいて、遊んでくれていたように思う。そのころの自分は、自分自身のことにばかり夢中で、彼らの存在にまで考えがまったく及ばなかったものの、彼らは常に自分のまわりで、見守り、導いてくれていたのではないか、という気がするのだ。
 今にいたるまで水晶洞と花のことは誰にも話していない。話したところで誰も信じず、笑われるだけのことではあろうが、それは彼自身の思い出と妖精たちの宝物とを侮辱し、また妖精たちからの信頼を裏切ることになる。だが、神秘の花のことを信じない人々でも、水晶洞のことは信じるかもしれない。それがいっそう恐ろしい。彼当人もそれがどこにあったか正確には分かりかねる水晶洞を、人々は探し当ててしまうかもしれない。彼らはきっと興味本位で、あるいは金銭目的で、洞を荒らしてしまうだろう。彼らに花は見えないかもしれないが、花の実在がそれで否定されるわけではない。すべての花がそうであるように、花の咲く時期というものがあるのかもしれないと、彼は本気で思っている。そもそも、彼らのような者たちには不可視の花であるのかもしれない。だが、見えたとしたら、人々はそれを、由来の知れぬ珍奇な工芸品として扱うのだろうか。その由来をもしかしたら学者が詮索でもするかもしれない。測定し、分析し、要は、単なる「物」として。そういう事態こそは、妖精たちへの自分の裏切りとなる。しかし自分が黙っていさえすれば、誰にも決して知られることはないだろう。人ひとりいない林のなかの、細い道からさえはずれた木立ちの奥である。さらに加えて、誰にも見つかるまいと考える根拠がある。その細い道に入るには、まず幼い頃に住んでいた小さな集落に入らねばならないが、その集落はもう滅びたのだ。
 大人になってから、用事で集落の近くまで行ったことがあり、時間に余裕があったので、集落にまで足をのばしたのである。引っ越して以来一度も訪ねたことはなく、どうなっているのかまったく知らなかった。そこには誰もいなかった。それぞれの家屋は残っていたが、生活の気配がなかった。おそらくは人々がそこを立ち去るときに、すべての家財とともに生活の痕跡もきれいに拭いとったとみえ、家屋は表情を失い、色あせ、いくぶん朽ちはじめて、つまり、それらの建物はすでに死んでいた。家々の庭、また玄関わきの小さな植え込みといったものも、おおかたの木は伐られ、花々は抜かれてしまっていた。かわりに雑草が生い茂り、なかには子供の背丈よりも高く伸びているものもあった。大人の親指ほどの太さの茎に、掌ほどの葉を何十枚と茂らせているものもあった。悪魔のような厚かましさであった。それらは彼のかつての家の庭にも入り込んでいたのである。薄汚いつる草が家々の雨どいを這いのぼり、何軒かは屋根の上にまで広がっていた。道の舗装のあちこちの小さな割れ目からも、ぞっとするほどの勢いで雑草が生え出ていた。彼の家から数軒離れたところに木造の小屋があり、かつてもすでに傾きかけていたような古びた建物ではあったが、それが完全に朽ち、屋根が破れ、窓が落ちてしまっていた。崖の真下にある数軒の家、そこには彼の家も含まれているが、いや、他人の手にわたってひさしいので、彼のみならず両親も、彼らの家がどうなっているのか知らずにいるのだろうが、いずれの玄関の戸にも、自治体による「崖崩落の危険あり、立入を禁ず」という張り紙がされていた。幼い頃に見たその崖は、もっと愛想のよい明るい “急斜面” であったように思う。丈の低い草が芝生のように生え、可憐な野の花が咲いていたのだ。ところが今では気味悪く大きな葉を持つつる草に覆われ、その葉の下にわずかに見える地面は、小石の目立つ荒れた肌をしている。そしてかつてよりも確かに傾きが急になった気がするのだ。もしかしたら小さな崩落はすでに起きたのかもしれない。崖の上に生えている木々には、見覚えがないでもないが、子供の頃よりずっと大きくなり、枝をはり出して日をさえぎり、崖下へ向かってのしかかるようで、そこにいると威圧されるように感じるのだった。これでは張り紙がなくても近寄る気にもならない。懐かしい家、さまざまの思い出のある家が、こうなってしまったことに、心の傷つきをおぼえ、警告の張り紙はまったく適切なものであると理解はしているにもかかわらず、あたかもそれを自分に不当に加えられた恥辱のようにも感じながら、しかしそれらよりもさらに強く、このようにして人間の世界を侵食していく自然の威力への畏怖をおぼえていた。彼らの勝利だ――彼は思った、妖精たちの勝利だ。
 林のなかを水晶洞の近くまでのびている細い道は、あいかわらず舗装されないまま、荒れていた。それでも集落の庭ほど草むしているわけではなく、雑草の丈は低く、まれに草を刈る者もいるのではないかと思われる。山菜採りにでも入るのだろうか。それにしても集落が生きていた頃でさえわずかな人通りしかなかったこの道を、これから通る者はほとんどあるまいと思った。まして道からそれて木立ちのなかをさまよい歩く者などいるだろうか。彼は林の奥へと続く道の行く手を眺めた。あの頃とかわらず木もれ日がきらめいている。自分さえ黙っていればよいのだと思った。
 黙っていることが、妖精たちへの忠義を示し、水晶洞とその神秘の花とを守ることになる。そのようにして、彼はいわば、妖精たちの王国の門のひとつを守る衛兵となることができる。人間として生きながら、彼らの王国に、その一員として加わることができるのだ。その考えが彼を幸福にした。誰にも打ち明け得ない喜びにひとり微笑した。林から離れ、どこに住んでいようとも、ただ思い出を保ち、心のその部分を永遠に他の人間たちに対しかたく閉ざしているかぎり、妖精たちの世界はつねに自分とともにある。人々に告げれば妄想と片付けられるであろう、そんな考えを、彼は信じ、人間としてのありふれた日々をおくりつつ、なかばは妖精として生きている。

舟旅

 北のかなたの国で、今しがた日の沈んだ海を、さらに北へ向かって漕いでゆく小舟があった。風変わりな旅人がひとりきり乗っている。薄暗い空の下を、さらに光とぬくもりから逃れようとするかのように、最も暗い水平線へ向かって漕いでゆくのだ。身を切るように冷たい風は、氷の世界から吹いてくるのだろうか。しかし彼には寒さを気にかける様子はない。夏のような軽装で、平気な顔つきをして行く手を見ているのだ。彼自身の青い唇、櫂を握りながらかじかみ震えている指先にも一向に気付いていない様子で。どこへ行こうというあては、はたして彼にはあるのだろうか。行く手に小島の影のひとつも見えず、小舟には荷物らしい荷物も積んでいないのである。しかし彼に尋ねるならば、彼は迷いなく答えるだろう。北へ行くのですよ。
 たとえ航海の途中で死のうとも、その死は誰にも知られない。もしも死骸が浜に流れつこうとも、それらの浜辺さえも、人々の住まうところからは遠く隔たっているのであるから。――白い鳥が一羽、薄明の中を飛んでゆく。もはや人間たちの言葉を解する者がまったくいない場所へ来たのだな、と彼はふと考える。言葉、それによって形作られたあらゆるもの、世の中と呼ばれているもの、人々の利害関係、さまざまな価値観、そして愛と称されているもののおおかたさえもそれに属するところの、複雑で巨大な網、その外に出てしまったのだ。今はただ、自分ひとりが物事を認識し、考えをまとめるための道具というにすぎない。それはこの海と空とのあいだで、なんと小さく頼りない道具だろう。いまや言葉は自分のうちにしかないのだ。そして、そうなってしまうと、自分自身にとってさえも、さしたる用もない道具であることに気付く。認識し、思考し、まとめてみたところで、それを伝える相手がいないのだから。
 すると世界がそれまでとは違った見え方をしはじめる。とはいえ、見覚えのない景色でもない。言葉の網のうちに自分もまた完全に編み込まれてしまう少し前、まだ半ばは自由であった頃に見ていた景色を、今ふたたび見ている気がする。幼い日、世界はこのように見えてはいなかったか。海の色、雲の流れ、風の匂い、そういったものについて、ことさらに認識し理解しようとするでもなく、誰に伝えようとするでもなく、ただ単純な驚きと喜びをもって受けとめていたと思う。人々の関係性のなかではまだ必ずしも生きておらず、多くの時間を安らかな自足のなかで過ごしていた、あの子供の頃の世界である。顧みればあまりに長い年月を、自分は、この世界がこれほどに広い、限りなく広いものであるということを忘れて生きてはいなかったか。ごく狭い枠のなかだけを世界と心得て。何と、多くのことを知ったつもりになりながら、多くのことに無知な者になりはてていたことか!
 そして暗い水平線は、幼い日の記憶の中でも最も幼い頃の、思い出せる限り最も遠い記憶のなかで見た景色に似ている。はるかな、おぼろな、しかし完全に忘れ去られるということはなく、ひとたび思い出されれば、つい今しがた起きたことどもよりも強く、はるかに強く心をとらえて離さないもの。思い出されぬあいだも、つねに心の深みにひそみ、静かにそこにありつづけているもの。それは海の景色であったのか、実のところはっきりとはせず、もしかすると湖あるいは池、それも小さな池にすぎなかったのかもしれない。小さな子供の目にそれが大きなものに映っただけのことかもしれない。いや、それどころか、自宅の、灯りを消した浴室であったかもしれないのだ。あるいは子供部屋の隅のちっぽけな暗がりであったかもわからない。あの頃、彼は、紙きれを筒に丸めてそのなかを覗き込むのが好きだった。その筒先がたまたま暗がりに向き、その小さな、あまりに小さな視野のうちの景色が、幼い者の心には、薄明のかなたの闇として深く刻まれたのだったかもしれない。とはいえ、仮にそうであったとしても、幼い者の目は、その闇自体を見ていたのではなく、それとよく似た何か別のものを見てはいなかったか。彼の最も遠い記憶よりもさらに遠くのもの、現在の彼にはもう思い出せないところの、幼い彼の記憶にはまだ残っていたはるかな景色、その闇を、懐かしんでいたのではなかっただろうか。
 子供のまなざしを失ってさえもなお心にかかりつづけてきた闇、あの闇によく似た、あまりにもよく似た景色のうちに進んでゆけば、最も幼い日にはるかに望んだ懐かしいものに、闇のなかの闇に、ふたたびたどりつけるのではないだろうか。彼はそう思い、夢見、やがてそれを疑うことをほとんど忘れた。考えるという行為は言葉の網のうちの世界に置き去ってきたのだし、いまや世界はその外にはるかに広がっているのだ。髪や胸やに凍てつく風を受けながら、彼はひたすらに漕いでゆく。空と海とはいよいよ光を失い、彼の小舟のありかも暗がりのうちに見分かちがたくなってゆく。そのおぼろな舟影は、世界の果てに向かっているようでいて、その実、彼の心の深みへ向かっているようだ。

聖堂

 正午近くの太陽が輝いている。おそろしく暑い。歩いているうち、ときおり意識が遠ざかる。太陽のせいだろうとは思うものの、もしかすると私自身、熱があるのかもしれない。赤い、大きな、古い煉瓦造りの建物のまわりを歩いている。建物の内にも外にも、誰の姿も見えない。まったく物音がしない。人の声がしないばかりでなく、小鳥の声も、風のかすかな音さえも聞こえない。
 何の建物か分からない。表札や看板のたぐいは何もない。規模からいって個人の住まいではなく、公共の建物ではあるまいかと思う。すべての扉はかたく閉ざされている。ガラス窓の内はあまりに暗く、室内の様子をうかがうことはまったくできない。窓枠の造りが、私がいつか見たことのある学校の建物に似ているというだけの理由で、これは学校かもしれないと思う。学校だとしても、すでに廃校となって久しいのではないか。扉のかんぬきが、もう動かせないのでないかというほど、ひどく錆びている。しかし、真っ暗な窓の内に、誰かいるのではないかという気はする。私のかつて知っていた誰かではないか。――また気が遠くなりかける。それは私のかつての同級生だろうか。ならば、この建物は私の母校だったろうか。まったく覚えていないが、なぜ忘れてしまったのだろう。
 目まいを覚えつつ数歩を歩むと、ふと、建物の一角、建物の一方の翼の端にあたる塔が、幾重にも有刺鉄線で囲われているのに気がついた。いつか見かけた軍隊の演習場のまわりの柵にそれが似ているというだけの理由で、私はまた、この建物は軍事施設ではないかと考えはじめた。すると硝煙の匂いさえ私はかいだ気がしたのである。有刺鉄線は夕陽の色に錆びついている。私はふたたび奇怪な郷愁にとらわれた。まったく覚えていない戦争の記憶が、具体的な光景を何も伴うことなく、ただ、もしかしたら戦友たち、親しい死者たちに対するものかもしれない、胸をかきむしる懐かしさ、悲しさのみとして蘇る。――塔の高み、正午の空を映すガラス窓の内に、懐かしい人々の姿が青白い影としてよぎるのを、私は見なかったか?
 その記憶が本当の記憶であるという自信はなかったが、しかしこの建物にひそむものが、何か亡霊のたぐいであるということは、奇妙に確信された。私は、これは廃病院でないかと思いはじめた。すると、すべての窓の内に、永遠に治ることのない患者たちが、ゆっくりと歩きまわり、静かに身を横たえ、あるいはぼんやりと窓の外を眺めたりなどしている、気配のみが、しかし目に見えるものと同じほどにありありと感じられはじめた。消毒薬のかすかな匂いも漂い、さらには忌まわしい、死臭らしきものさえして、すぐにも逃げ出したかったが、そうできなかったのは、やはり彼らが私の遠い昔の知人たちであるという気がしてならなかったのだ。
 ふと、私に対する何者かのまなざしを、建物の内からではなく外から、私が行きかけていた方角から感じた。そちらを見ると、有刺鉄線に囲われた塔の向こう側から、たった今歩み出てきたといった様子で、そこに歩を止めて私を見ている者があった。非常に美しい、女性とも男性ともつかない若者で、目もとに微笑の気配があった。やわらかに波打つ髪がきらめいていたのは、陽光のせいだけではないようだった。天使だと私は直覚した。天使でなければ、あれほど優しい微笑を浮かべることができようか。それにまた、その若者に対しても懐かしさを覚えたのを、私は、常に私を見守り続け、私が生まれる以前からさえも見守り続けてきた、最も私に近しい存在であるがゆえに違いないと思ったのである。自然にそう思えるほどの懐かしさ、あたかも肉親か、恋人に対するほどの親しみ、愛しさを、その姿を目にした瞬間から感じていたのだ。――天使は微笑を浮かべたまま、しかし目を伏せ、何も語らず、ふたたび塔の向こう側へ姿を消してしまった。私は追った。
 しかしそこには誰もいなかった。私は立ち止まって呆然とした。やがて私の立っている場所と、建物の壁とのあいだの地面に、黒い染みがあることに気がついた。乾いた土のそこだけが、何ゆえか湿気をおびているのだった。私は訝しんで近寄ろうとし、その黒さに不吉なものを覚えて立ち止まった。だが、すでに不吉なものそれ自体が私のほうへと不可視の触手を延ばしてきているらしかった。というのも、すでに私は、それが黒く変色した血、あるいは死骸から流れ出る腐敗液のたぐいであるという気がしてならず、それを自分の心から振り払おうとしてもできなかったのである。しかも忌まわしいことに、それはどうしても、あの天使の肢体に由来するものに違いなかった。その黒さからすれば、天使は、私の前に姿を見せるよりもかなり前に、死んでいたとしか考えられない。
 さらに私はその黒さと同じ黒さを、地面にほど近い壁の煉瓦のいくつかに見出した。古い煉瓦が劣化して黒ずんでいるだけでないかとは思った。実際、この場所へ来るまでにも、同じような色の煉瓦をあちこちに、いたるところに、いくつともなく見かけはしなかったか。視線を壁伝いに這い上らせてみれば、ここでも、はるか高いところまで、黒みをおびた煉瓦がさまざまな黒さの度合いをもって、数知れず嵌まっていた。しかし私にはもはやそれらを単なる古色として眺めることができなかった。変色した血であるか、腐敗液であるか、そうしたものがこの建物の見上げるばかりの壁に染み込み、壁そのものを腐食しているのを感じた。ならば赤みを保っている煉瓦さえも、まだ新しい血の色をおびているのではあるまいか。この建物の全域がそのようであるに違いないと思った。死者の数の膨大さを想像した。見れば、腐食の進んだ煉瓦はすでに海綿のようになってしまって、黒い液体がじっとりと染み出ているではないか。この建物はもうぼろぼろなのだ。すぐにも崩れかねない。しかもなお忌まわしいことに、私には、その劣化が、腐食が、血が、腐敗液が、懐かしかった。それは私にゆかりのある無数の者たちの肢体の名残りだ。その光景は恐ろしいとともに、このうえなく荘厳にも感じられ、ほとんど恍惚として眺めている私自身があった。であるから、たとえ巨大な壁面が私をめがけて崩落してこようとも、私には逃げることができない。――いや、逃げねばならない。
 身をふりほどくように、私は背を向け、走り逃げようとした。だが、そのとき私の目の前に開けた景色は、見渡すかぎりに広がり咲き誇る、血赤色のサルビアの花園であった。地面はいつしかすべての土が黒々と湿っていた。空が奇妙に黄色く見えた。ふと、試験管のなかで赤黒い血餅と分離した黄色い血漿が連想された。私は立ちすくんだ。正午の太陽が真上から照りつけ、私の影は真下に最も小さく、最も黒い。太陽が私に言った。逃げるところはない。逃げるべき未来の時がすでにおまえの前方にない。時が、すでに変質し、崩壊しはじめている。過去は背後に、膨大に堆積し、しかもおまえにはそれを思い出すことさえできない。そして現在、すなわち無限の時の流れのなかの極小の一点にすぎないものを、私、おまえの存在をこの高みから照らし出す私が、おまえのその緊張のきわみにおいて、永遠にまで引き延ばす。

 すでに照明の消された廊下の、非常灯だけがともっている闇のなかを、この街のどの学校よりも地味な黒い制服を着て、ひとり歩いているお前、子供の頃の私、どこへ行こうというでもなく、ただ他の子供や教員たちの目から逃れるように歩いている。クラブ活動に参加しないのであれば、もう家に帰る時間であろうに、帰ろうとしない、まるで家からも逃れようとするかのように。飾り気のない黒い衣装が、お前を小さな聖職者のように見せている。小さな両手を前に組んで、そのままお辞儀でもしかねない殊勝さで、足音を立てることを神の前にはばかっているもののように、静かに歩いてゆく。
 渡り廊下を渡り、この時間帯にはもう誰もいない別棟に移って、窓辺に足を止めた。柱にもたれて立ち、窓の外を見る。遠い空の、月や星やを眺める。何かに驚いたように目を見開いているが、いつに変わらぬ夜空に何を驚いているのだろう。月が月であること、星が星であることの不思議さに、驚いているらしい。日常の狭い世界の外側に、宇宙がそのようにあることに、日常の騒々しさとは無関係に世界がそのようにあることに、そして私が私であることに。
 夜空に目をこらす――小さき者よ! お前にこの大きな世界の何を理解できよう。星明かりを映すその目には、いまだ幼い好奇心と希望との光がある。お前はまだ自分の小ささをはっきりとは理解していない。年を経れば経るほどに自覚され、より小さく、小さくなっていくばかりなのだ。
 チャイムが鳴る。すべての子供たちが帰宅させられる時間だ。しかしお前はまだ帰らない。まだ校舎の鍵はかからない。窓の外を眺めつづけている。まだ時間がある。だが、じつはたいした時間が残されているわけではない。子供よ、もう長くはないのだ。残された生の時間は、幼いお前にとってさえも、そう長いわけではない。いたいけな、あわれな子供よ、その小さな体、ちっぽけな頭で、そのことをお前はまったく理解していないわけでもない。そんな年頃ですでにいくばくかの絶望を知りはじめている。もしかしたら自分なりに深く絶望しているつもりかもしれないが、その小さな肩に負えるだけの絶望を負っているだけのことだ。お前が大きくなっていくにつれ、背負う絶望も大きく育っていく。その深さと暗さがお前そのものであるほどに。
 おかしな子供、生まれついての風変わりな子供よ、ほかの子供たちのようには遊びもせず、喜ぶこともなく、こんな時間にこんな場所をひとりさまよっている。その隔たりをお前自身、この建物の暗がりと、向かいの棟の、帰りじたくを始めている子供らのいる窓の明るさとのあいだに眺めている。お前は寂しさをおぼえ、その寂しさはまた、甘やかなものでもあろう。おのれの厄介な性格という形で与えられた、おのれの宿命を、すでにそれなりに受け入れはじめている。そのときお前は、お前をこの世界に送り出したところの、残酷な、しかし懐かしい、大きな暗いものの懐に抱かれているのだ。――窓の外で水鳥の鳴く太い声がして、たちまちお前はそちらに気をとられた。こちらの棟と向かいの棟のあいだの中庭から、大きな鳥の影が舞い上がり、暗い空のどこかへ飛んでゆく。お前のまなざしは鳥を追えるかぎりに追う。結局のところ明るい窓よりも、夜空の鳥に憧れるのだ。
 少しばかり疲れて、窓を背にして、床に座り込む。窓からの月光がほのかに壁を照らしているほかは、非常灯の光があるばかりである。その暗さに安らぎをおぼえる。背後の壁の向こうでは、もう子供たちは部屋を出て、窓の明かりは消えたのだろうか。いつまでもこうしてはいられないと、分かっていながら、お前はまだ帰る気にならない。闇のなかで膝を抱える。膝を抱えた腕を上にずらし、両の二の腕を抱く。交差する腕に顔をうずめる。この世界で自分を理解し、愛してくれる唯一の者の腕のように、お前自身の腕がお前を抱きしめる。そのぬくもりを感じながら目を閉ざす。――私は確言するが、まわりの大人たちの誰もお前を理解することはなく、誰ひとり助けはしない。そのことをすでにぼんやりと予感し、ゆえにこうした日々の終わりを思い描くこともなく、それを望むことすら思いもよらず、けなげにも、ただおとなしくうずくまっているのだ。お前、このうえもなく愛しいお前、この私よ、いっそ闇のなかで血を吐いて死ね。